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第4章⑨
……夢に見る母の顔は、いつだってぼやけてはっきりしない。
そのくせ、彼女が着ていた着物の鮮やかな柄だけはよく覚えていた。
桜。桔梗。牡丹。紫陽花。朝顔。海棠。菊。椿――いずれも父親だった男が、母にせがまれて買い与えたものだ。そのことを知ったのは、父の足が母のもとから遠のいて久しくなった後のことだ。父に若い女ができたことに、母はことあるごとに恨み言を並べていた。
自分もそういう立場の女であることを棚に上げて。
「あの家には日本人のカルボと、カルボに男が生ませた息子が暮らしているんだ」
家の周りに住む者が陰口を叩いているのを知らぬのは多分、母だけだった。肺病を患って死ぬ直前まで、母は父と父の正妻と、父の新しい女に恨み言を吐いていた。
母の顔をはっきり思い出せない。それなのに、妙に確信を持って言えることがある。
自分は性根の腐った美しい母親に、顔も中身もうり二つなのだろうと。
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……黒木が目を覚ますと、頭上に医務室の天井が広がっていた。
とっさに、ここに運ばれた原因を思い出せなかった。少なくとも訓練中に負傷した記憶はない。と、ここで部屋の中に自分以外にもうひとりいることに気づく。
部下の金本勇曹長が枕元に座って、黒木の方を見下ろしていた。意思の強そうな、武骨な顔を見た瞬間、黒木はすべてを思い出した。
ぼんやりしていた黒木の表情が一変するのを、金本はあきらめの境地で見守った。勢いよく上半身を起こした黒木が、その勢いのまま金本にビンタを食らわせようとするのも。
だが金本の頬を痛打する寸前、飛んできた手はなぜかピタリと止まった。
「……気に入らん」黒木は吐き捨てた。
「貴様はいつもつまらん顔をしているな、金本曹長。殴られそうな時はもっと怯えた顔をしろよ」
「……しようと思って、できるものではありません」
「ふん。今村あたりはよく顔がひきつるから、見ていて面白いぞ」
――……性悪が過ぎる。
金本ははじめて「はなどり隊」の副隊長に同情の念を抱いた。
黒木は何を思ったのか、手を引っ込めずに金本の頬をつうっと撫でた。指の感触が思いのほか温かい。そのことで、金本は余計に居心地悪くなった。
「お前ひとりか。ほかの連中は?」
「さっきまで何人か残っていましたが。今は兵舎に戻っています」
「冷たい奴らだ」
「俺が帰したんです。目を覚ましたあなたに殴られるのは、俺一人で十分だと思いましたから」
金本は淡々と言った。実際にこの場合、黒木の制裁を受けるべきは、意図しなかったとはいえ彼を気絶させた自分である。八つ当たりの被害が及ばぬためにも、今村や工藤たちにはこの場にいてくれない方がよかった。
とはいえ、その決断を下すのには多少の覚悟が必要だった。過去の経験から、金本は閉じ込められた空間で誰かと二人きりになるのは、今も苦手だ。まして相手は、取っ組み合いのケンカまで演じた黒木である。多分、想像するだに恐ろしい報復が待っている……ーーと、そこまで思ったところで、金本は逆に胆が据わった。最悪、殺されそうだが、最初から黒木に殺されるものと思っていれば、たいていのことは乗り切れるーーそういう論理で納得した。
黒木は金本に向かって、冷ややかに目を細めた。きっと腸が煮えくり返っているに違いないのに、予期していたほど激した反応がない。少々、不気味だ。目覚めた途端、「切腹しろ。介錯はしてやる」くらい言われると、予想していたのだが……。
おまけに金本はもうひとつ、黒木に伝えるべきことがあった。
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