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第4章⑩

「――悪い知らせです」 「言え」 「夕方、ラジオで流れてきたんですが。沖縄島と宮古島、それに奄美大島が昨日、米軍の艦載機(かんさいき)に襲われたそうです」 「…敵の数は?」 「四百機」 「被害は?」 「『地上と船舶に若干の被害あり』だそうです」  それを聞いて黒木は鼻で笑った。  若干の被害あり。損害は軽微――今の日本は新聞もラジオもすべて、陸軍・海軍の内部に設けられた大本営の発表に基づいて記事を書いたり報道を流している。大本営発表が、自軍の敗北や受けた損害をいかに苦心して糊塗しているかは、いまや少なからぬ国民が知るところだ。若干の被害? 四百機(この数字も正しいか保証はないが)のアメリカ軍機の空襲を被ったのだ。航空機や船舶を狙った攻撃だったとしても、軍にも民間人にも、相当の被害が出たことが容易に予想できた。  黒木は息を吐いて、天井を見上げた。もうずいぶん前から、確信があった。  この戦争は日本の負けだ。いつ終わるかは定かでないが、結末だけは変えようがない。  ただそれが訪れるのが、早いか遅いかだけの違いだ。  そう思うと、さすがにむなしい気分に襲われる。負けると分かっている戦いを戦い続けることに、いったい何の意味があるのか――黒木はいまだ、答えを見つけられない。  だから意図的に、将来の敗北のことは考えないようにしていた。敵が来れば迎撃する。できるだけ多くの敵を殺し、味方の被害を減らすために、自分ができることをする。  つとめて、目の前のことだけ考えるようにしていた。   そして今はとりあえず――自分を気絶させた憎たらしい男をどうするかだ。  黒木はまた、金本の頬に指をはわせた。ひげの剃り跡がざらつく。金本の目をのぞきこむと、そこに困惑の色が浮かんでいる。自分がこの男を困らせている―ーそう思うと胸がすく。 「俺がひっかいたところ、傷になったか」 「………」 「痛むか?」 「いいえ」 「なら、痛くしてやる」  そう言うや、爪を立ててで金本の傷のかさぶたを一気にはがした。 「―――っ」  予期せぬ黒木の行動に、金本はさすがに眉をひそめた。開いた傷口がかっと熱を帯び、血がみるみるにじむ。黒木は手が血で汚れるのもかまわず、その傷をまるで目新しい小動物かなにかのように撫でた。 「――前より男前になった」  弾んだ声で黒木は嬉々としてあざけった。それからどういう神経をしているのか、金本の血のついた指を口元に運ぶと、舌で舐めて鮮血のしずくを飲み込んでしまった。  これには金本も怒りを通り越してぎょっとなった。  金本のその反応が気に入ったらしい。黒木は唇をつり上げ、にんまり笑った。金本は背筋がぞくりとした。「はなどり隊」の隊長につけられたあだ名が、不意に頭をよぎる。 ――羅刹女(らせつにょ)だ。  血を見て喜ぶ黒木の姿は、生来の美貌に異様な艶めかしさが加わり、一瞬妖魔のように金本の目に映った。  金本をいたぶったことで、一時的にせよ満足したらしい。黒木は横になっていた寝台から降りると、「着替えを持ってこい」と言った。 「――帰る。家まで送れ、金本曹長」

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