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第4章⑪

 黒木が間借りしている家は、甲州街道に面して広がる畑の一角にあった。京王電鉄の駅まで歩いて数分だという。このあたりでは大きい部類に入る農家で、敷地に建てられた小さな離れが彼の住まいだった。離れは母屋から独立している。だから仕事で夜遅くなっても、家人を起こす気遣いがないという。もっとも、この日戻ったのは夜の八時過ぎで、まだ家の人間が起きている時間だった。 「残り物でいいから持って来てくれ。あと湯飲みを二つ頼む」  黒木は母屋の勝手口をのぞきこみ、片付けをしていた女中に言いつけた。それから振り返ることもなく、自分のねぐらへ向かう。金本は黙ってその後ろに従った。  先ほど、門のところで帰れるかと思っていたのだがーー。 「暇だろう。もう少し、つきあえ」  黒木に当たり前のように言われ、しぶしぶついて来たしだいだ。金本相手に、まだ鬱憤(うっぷん)を晴らし足りないらしい。今回に限っては、金本にも非があるので余計に逆らえなかった。  黒木が戸の鍵を開ける間、金本は離れの外観をざっと眺めた。小さいが、思いのほかしっかりした造りのようだ。周りも手入れされていて、窓の下には鉢植えがいくつも置かれている。金本は草木に詳しくないが、葉の形で菊と察しがついた。 「まあ、適当に座ってくつろげ」  家に入りながら、黒木に言われ、 「…おじゃまします」  金本は仕方なく靴を脱いで上がり、畳の上に腰を下ろした。  離れは二間から成っていた。手前の部屋は六畳。奥はもう少し狭く、四畳半ほどか。金本が座る六畳の方には、壁際に書棚と書き物机。それから、なぜか薬屋などで見かける小さな引き出しがたくさんついた収納箱が鎮座していた。  上着を奥の部屋に放りこむと、黒木は金本の対面にあぐらをかいた。そして、 「今日、工藤にわざと負けだろう。なんで、そんな真似をした?」  瞳に冷たい光をたたえ、単刀直入に聞いてきた。 ――気づかれていたか。  金本は慎重に言葉を選んだ。 「…あれは、ただの暇つぶしでしたから。彼らを必ずしも負かす必要はないと思って、勝ちをゆずったんです」  ただでさえ、金本は他の搭乗員たちの反感を買っている。ここでまた彼らを叩きのめせば、余計にそれがひどくなる。  逆に少しくらい花を持たせてやれば、今村たちの溜飲も下がるだろうーーそう考えたのだ。 「――なんだ。要は保身か」  黒木はバカにするようにつぶやく。その反応に、金本は黙り込んだ。  調布に来た次の日、金本は黒木から「はなどり隊」の嫌われ者になれと言われた。その時、黒木の台詞には実は続きがあった。 「――手加減はいらない。やつらを徹底的に叩きのめして、未熟さを思い知らせてやれ。貴様を模擬戦闘で倒そうと躍起(やっき)になれば、頭も使うし、多少は腕も上がるだろう」  そう。黒木は隊の搭乗員たちの技量の向上を望んでいた。理由は聞くまでもない。  空戦の不変の真実。  腕の立つ奴でも、死ぬ時は死ぬ。  そして腕の立たない奴は、絶対に早死にする。  …黒木は無条件に尊敬に値する飛行隊長ではない。操縦技術はともかく、人格の面ではむしろ欠陥だらけと言っていい。それでも彼なりのやり方で、部下たちの生存率を上げようとしているーーそれを感じたからこそ、金本は言われるままに憎まれ役を引き受けたのだ。 ――いたわりの言葉のひとつくらい、もらってもいいところだが……。  そう思って、金本は途中でその考えを放り捨てた。黒木にそれを求めるのは、金貸しに施しを求めるようなものだ。与えられる可能性は極小。  その時、女中がやって来て、料理の乗った皿とお茶、湯飲みを置いて行った。  黒木はまた隣の部屋に消える。何やらごそごそしているな、と思っていると、なんと一升瓶を手に戻ってきた。

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