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第4章⑫

「酒はいける口か?」 「…飲めますが」 「よし」  黒木は金本の斜め右にあぐらをかくと、透き通ったアルコールを湯飲みになみなみと注ぎ、金本の方へ押しやった。昨今の食糧難で清酒を口にできる機会も減っている。飛行隊長ともなると、やはり何かと役得があるのか――金本がそんなことを思っていると、 「遠慮するな。買ったわけじゃない。無料(ただ)で手に入れたやつだ」 「誰かからの贈り物ですか」 「いいや。前にいた飛行場の近くで、ヤクザ相手に花札やって巻き上げた」 「……」  本当に。何をやっているんだ、この男は。 「どうした? 飲めよ」  黒木は自分の湯飲みを取り上げ、ひと口飲んだ。金本はもうどうにでもなれ、という気持ちで口をつける。途端、馥郁(ふくいく)とした香りが口内いっぱいに広がった。 「うまいか?」 「はい」  黒木はまたひと口あおる。それから、金本に向かってはっきり言った。 「ヤー(おい)マッシィヌンガ(うまいか)?」  突然のことに、金本はとっさに反応し損ねた。 「……今、なんて?」 「『うまいか」って聞いた。朝鮮語で。その顔だと、通じたみたいだな」  黒木は得意げに笑った。いたずらが成功した子どものような笑い方は、思いのほか魅力的だ。金本はしかし、すぐに心を許せなかった。 「……俺が朝鮮人だと、知っていたんですか?」 「当然だろう。俺は隊長だぞ。隊に属す人間の経歴書くらい、目は通している」  黒木はくつろいだ様子で酒をあおり、女中が持ってきた煮物をつまんだ。 「お前は大分、日本人らしく振る舞っているが。それでも時々、あっち(朝鮮)の習慣が出ているぞ」  たとえば、と黒木は酒の入った湯飲みを指でなぞる。 「酒をすすめた時、俺が口をつけるまでお前は飲もうとしなかった。年はともかく、俺の方が地位は上だから、自分が先に口をつけるなんて考えられなかったんだろう。それと飲む時に、少し顔を横に向けて、あいた方の手で口元を隠した。日本人ならまずしない――どちらも朝鮮の人間の習慣だ」  出自が露見するのは、言葉遣いや顔立ちからだとずっと思っていたが――どうも他にもいろいろやらかしていたらしい。  いや、それよりも――。 「大尉どのは、どこで朝鮮の言葉を?」 「餓鬼(がき)の頃、京城(ソウル)に住んでいた。そっちこそ、どこの出身だったか?」 「……咸鏡北道(ハムギョンブクト)です」 「そうだ! 思い出した。えらい田舎だと思ったんだ」 「………」  余計なお世話だ。確かに冬はすさまじく寒いし、山ばかりで土地は狭いし、その山にはいまだに虎が棲んでいるような所だが。 「家族は? 息災か」  酒の勢いもあるのだろう。黒木の質問は遠慮がない。  まるで今までためこんでいた疑問を一気(いっき)にぶつけている――そんな感さえあった。 「…故郷に両親がいます」  金本は慎重に答えた。 「それと兄夫婦が。もう何年も会っていませんが」  正確には、会うのを避けてきた。両親や長兄の家族には、日本に絶対に来るなと手紙で伝えている。光洙(グァンス)が起こした事件からもう何年も経っているが――万一にも、誰かによって過去をむしかえされて、官憲の手が老いた父母や跡取りの兄に及ぶことだけは、絶対に避けねばならなかった。 「…酒がすすんでいないな」  黒木は金本の湯飲みをのぞきこみ、遠慮なく追加を注いだ。この様子だと、下手に遠慮して飲まないと機嫌を損ねそうだ。しかたなく、金本は杯を重ねた。 ――…そもそも。なんでまた、俺に酒をふるまう気になった?  考えても理由が思いつかない。親睦を深めるため? ーーちょっとありえそうもない。  それとも、金本を二日酔いにして明日、全員の前でいびり抜く気か? ーーやり方が迂遠すぎる。  結局、単なる思い付きか気まぐれという線が、一番ありそうだった。 「なあ。『金本勇(かなもといさみ)』の通称は自分でつけたのか?」 「そうですが」 「何か、由来とかあるのか?」 「…別に」 「もったいぶってないで教えろ」  黒木に迫られ、金本はしぶしぶ言った。 「俺が生まれた時、父親が『勇気』の勇の字を名前に入れるつもりだったんです。でも、母の兄がその字を使った名前だったんで、遠慮して使わなかったそうです」 「なるほど。お前、よほど『勇』の字を使いたかったんだな」 「…ええ」  図星だった。他人から見れば、些細なことかもしれないが、どうせなら『勇』の字を使った名前の方がよかった。その思いが、成長したあともずっとつきまとっていた。 「(キム)蘭洙(ランス)。別に悪くないと思うがな」 「………」  黒木に本名を呼ばれるのは、なんとも妙な気分だった。

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