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第4章⑬
「さっき、俺がどこで朝鮮語を覚えたかと聞いたな」
金本の湯飲みに透き通った酒をつぎ足しながら、黒木は唐突に言った。
「父親だった男が総督府の役人だったんだ。内地に比べて、朝鮮で働く日本人の官吏は給料がいい。それに地位も悪くなかった――正妻以外に、女の一人二人を余分に囲い込めるくらいにはな。『カルボ』って言えば、分かるか」
「……ええ」
男に身を売り、生計を立てる女のことだ。
「俺の母親はそういう女だった。売り飛ばされて朝鮮にわたり、父親に気に入られ、買われて、囲われて――」
俺を生んだ。
黒木は血色のいい唇に嘲りを刻んだ。
「父はな、若い、それも十五六の女に目がなかったのさ。俺を生んだとき、母親は数えで十七だったんだぜ。母が二十四で死んだあと、俺は運よく黒木の家に迎え入れられた。正妻が生んだのが女ばかりで、息子がいなかったからだ」
黒木は酒をあおる。
「中学に入ってから、黒木の家には正月くらいしか戻っていない。航士(※航空士官学校の略称)に入ってからはそれも途絶えたがな。ここ何年かは、ほとんど音信不通だ」
荒 んだ身の上話を聞く内に、金本の脳裏に不意にある考えがよぎった。
――…寂しいのか?
今の今まで、黒木が孤独に悩まされているなんて、考えたこともなかった。しかし、今しがた黒木自身の口から語られた半生は、どうにも幸福な環境とは言えそうになかった。
「…なあ、金本。お前、好きなものはあるか?」
「え?」
「飛ぶこと以外に」
急に話題が変わって、金本は少しとまどった。空の上なら大抵のことに対処できるのだが、地上で黒木相手に話を続けるのはかなり集中力がいるようだ。
「趣味ということですか?」
「まあ、そうだ。なんでもいい。将棋でも、読書でも、楽器でも」
金本は少し考えた。全然、思いつかない。
「特にありません」
「……つくづく、つまらんやつだな。本当に何もないのか」
「はい」
「剣道は?」
「飛行学校にいた時、だいぶん修練しましたが。特段に好きというわけではないです」
「それで、あの実力かよ」
「……負けるのが嫌だったんです」
金本は正直に答えた。今でこそ用心深く振る舞うようになったし、必要とあれば勝ちを譲れるようにもなったが――生来、勝負事において負けず嫌いだ。日本人の同級生に負けたくない。その一心で、とにかくがむしゃらに練習して強くなった。その甲斐あって、卒業間近になる頃には、ほとんど負け知らずになっていた。
「大尉どのこそ、何か趣味は?」
「あるにはあるが。なんだ、聞きたいか?」
「言いたくないのなら、聞きませんが」
「いや聞けよ。…花だよ」
「花……?」
「植物を育てるのが好きなんだ――意外という顔だな」
黒木はそう言って、壁際にある引き出しがたくさんついた収納箱を指さした。
「あそこに色々な植物の種を入れている」
それを聞いた金本は先刻、家の前で見た光景を思い出した。
「玄関先の鉢植えも…」
「そうだ。菊を何種類か、苗から育てた。もう二三週間もすれば咲くはずだ」
黒木の口元がゆるむ。開花を心待ちにしているようだった。
「もう少し早ければ家の裏手に彼岸花 がたくさん咲いていたんだが。菊が咲いたあとは庭木の椿が見れる。そのあとは梅だな」
指を折り、スラスラと名前を挙げる。本当に花好きなんだな、と金本が思っていると、
「何か好きな花はあるか?」
黒木に聞かれて、金本は困った。
花には疎 い。というより、ろくに区別もつかない。見てわかるのは、実家の庭に植えてあったモクレンくらいだ。それも兄の光洙 に教えてもらって初めて名前を知ったていらくである。
しかし、ここでまた「特にない」と答えようものなら、黒木を怒らせそうだ。
「……日本語での名前を、あまり知らないのですが」
「なら、朝鮮語で言えよ。大体、分かるから」
「……トラジ 」
「へえ。しぶいな」
「あとユッチュ とか、パ とか…」
「……お前。それ全部、食べられる植物の花だろ」
ばれた。
黒木は酒気を帯びた顔に呆れた表情を浮かべた。
「お前な、自分の名前に花の名前が入っているだろうが」
「ああ……」
言われてみればそうだった。
「蘭洙――蘭。紫蘭 なら、よほどのことがない限り枯れない。育ててみるか?」
「はあ…」
「……死んだ母親がな。花の模様のついた着物をたくさん持っていたんだ」
黒木はぽつりと言った。
「きれいだと幼心に思った。多分、それもあって、小さい頃から何かしら育てていた。こちらが世話をすれば、咲いて応えてくれる。裏切らない。そういうところがいい……人間相手だとなかなか、そうはいかないからな」
さりげない言葉に、金本は胸をつかれた。
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