62 / 370
第4章⑭
期待して。願いや想いを向けて――それが何度も何度も裏切られてきた。そんなことを思わせた。薄暗い灯りの下でうつむく黒木の顔には、いつもの傲慢さはない。かわりに静かな陰鬱が漂っていた。
その陰影が、まるで磁石を前にした鉄のように金本を引きつけた。
見つめられていることに気づいたのだろう。黒木がふっと顔を上げて聞いた。
「…俺の顔を、どう思う?」
金本は正直に答えた。
「美しいと思います」
「ふん。黒木の家の者に言わせれば、俺はカルボだった母にそっくりだそうだ」
「…でも、あなたはあなたの母君ではない」
黒木の自嘲に対し、金本は思わず口をはさんだ。
「あなたが母君のことを好きであれ、嫌いであれ。別の人間だ。似ているところがあっても、同じくらい違うところもたくさんあるはずだ」
その言葉は、金本自身に向けた言葉でもあった。
――俺は金光洙 とは違う――
兄が大好きだった。だからこそ、あの事件でひどく恨んだ。
黒木はくくっとのどをふるわせて笑った。
「俺が母親を嫌っていると思ったか?」
「そんなふうに聞こえました」
「はは。お前、酔ったな。用心深さがなくなっている」
黒木は床に手をついて、金本の方へにじり寄った。大きな瞳が、金本をのぞきこむ。
「慎重に、用心深く振る舞おうとしているが――本当はそういう奴じゃないだろ、お前」
「…自分では、分かりません」
「いいや、そうに決まっている。でなきゃ、俺にわざわざ忠告したり、ケンカを売ったりしない」
「………」
「最初に会った時から思っていた。お前、頭は悪くないがバカだ。バカ正直で、小狡 さが微塵もない。目を見りゃ分かる。生意気なくらいに、まっすぐで――そこがいい」
黒木は金本の頬に手をのばす。またぞろ、かさぶたをはがされるかと、金本は薄いアルコールの靄 がかかった頭で思った。しかし、実際に起こったことは予想のはるか上をいくことだった。
黒木は目を閉じて顔を近づけ、覆いかぶさり――ふっくらした唇で金本の口をふさいだ。
うかつにも、何が起きたか金本は数秒理解できなかった。
交戦中に上空でそれだけの間、何もしなければ墜とされているところだ。
黒木と触れている部分が温かく湿ってヌルりとする。味わったことのない感触に、頭がジンと染みるような熱さを帯びてきた。動けずにいる金本の頭を、黒木の手がびっくりするくらい優しく撫でる。それから、口を押し広げて舌を入れてきた。
何も考えられない。
ただ目を閉じて、この行為に没入したい。
腹の底から湧いてくる衝動にかられ、金本はほとんどそうしかけた。
だが、同じくらいにーー未知のものへの恐れに支配される。理性と、そして何年もの間に養われた用心深さが、衝動にまかせた行動へ突き進むのを許さなかった。
金本はいきなり黒木の肩をつかんで押しやり、身を引いた。
黒木はまだ行為の余韻の中にいた。だが何が起こったか悟ると、金本を恐ろしい目でにらんだ。怒りと、それ以上に深い悲痛と失望がそこに浮かんでいた。
「…酔っぱらってた。今の、忘れろ」
黒木はささやくように言い、顔をそむけた。
「もう遅い。そろそろ、帰れ」
口を開こうとする金本に向かって、黒木は犬でも追い払うように乱暴に手を振った。
「帰れって! 俺はもう寝る」
言うなり、その場に本当に横になってしまった。
……金本が動く気配を、黒木は背中で感じ取った。
引き止めはしない。たとえ、そうしたくても自分からはできない。ただ金本がこのまま、出て行ってくれることだけが望みだった。
黒木はかたくなに目をつむった。
その時、ふいに肩に何かがかけられる感触がした。
「――できたら、布団で寝てください。風邪をひかないように」
金本の声は、初めて会った時と同じだ。
ぶっきらぼうな中に、こちらへの気遣いがにじんでいた。
つまらない矜持など捨てて、振り返りたい。黒木がその欲求と戦っている内に、玄関の戸が開いて閉まる音が、空っぽな部屋に響いた。黒木はしばらくじっと、その場に身を横たえていた。もう絶対に金本は戻ってこないと確信したところで、ようやく身を起こした。
金本が残していったものを手に取って、黒木は力なく嘲笑った。
「……あのバカ。どういう神経してんだ。自分の上着を置いていきやがって」
抱くとまだ温かく、金本が喫っているタバコの匂いがした。そのぬくもりと存在の残滓に、黒木は余計に心がえぐられた。
不意に母のことを思い出す。父親だった男に捨てられた哀れな女。
「はっ……」
鼻で笑う。母親と、その母にうり二つな自分を。
手に入らないものを求めて、自分勝手な恨み言を並べて、打ちひしがれる。
そんな情けない姿まで、そっくりだった。
ともだちにシェアしよう!