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第4章⑭

 期待して。願いや想いを向けて――それが何度も何度も裏切られてきた。そんなことを思わせた。薄暗い灯りの下でうつむく黒木の顔には、いつもの傲慢さはない。かわりに静かな陰鬱が漂っていた。  その陰影が、まるで磁石を前にした鉄のように金本を引きつけた。  見つめられていることに気づいたのだろう。黒木がふっと顔を上げて聞いた。 「…俺の顔を、どう思う?」  金本は正直に答えた。 「美しいと思います」 「ふん。黒木の家の者に言わせれば、俺はカルボだった母にそっくりだそうだ」 「…でも、あなたはあなたの母君ではない」  黒木の自嘲に対し、金本は思わず口をはさんだ。 「あなたが母君のことを好きであれ、嫌いであれ。別の人間だ。似ているところがあっても、同じくらい違うところもたくさんあるはずだ」   その言葉は、金本自身に向けた言葉でもあった。 ――俺は金光洙(キムグァンス)とは違う――  兄が大好きだった。だからこそ、あの事件でひどく恨んだ。    黒木はくくっとのどをふるわせて笑った。 「俺が母親を嫌っていると思ったか?」 「そんなふうに聞こえました」 「はは。お前、酔ったな。用心深さがなくなっている」  黒木は床に手をついて、金本の方へにじり寄った。大きな瞳が、金本をのぞきこむ。 「慎重に、用心深く振る舞おうとしているが――本当はそういう奴じゃないだろ、お前」 「…自分では、分かりません」 「いいや、そうに決まっている。でなきゃ、俺にわざわざ忠告したり、ケンカを売ったりしない」 「………」 「最初に会った時から思っていた。お前、頭は悪くないがバカだ。バカ正直で、小狡(こずる)さが微塵もない。目を見りゃ分かる。生意気なくらいに、まっすぐで――そこがいい」  黒木は金本の頬に手をのばす。またぞろ、かさぶたをはがされるかと、金本は薄いアルコールの(もや)がかかった頭で思った。しかし、実際に起こったことは予想のはるか上をいくことだった。  黒木は目を閉じて顔を近づけ、覆いかぶさり――ふっくらした唇で金本の口をふさいだ。  うかつにも、何が起きたか金本は数秒理解できなかった。  交戦中に上空でそれだけの間、何もしなければ墜とされているところだ。  黒木と触れている部分が温かく湿ってヌルりとする。味わったことのない感触に、頭がジンと染みるような熱さを帯びてきた。動けずにいる金本の頭を、黒木の手がびっくりするくらい優しく撫でる。それから、口を押し広げて舌を入れてきた。  何も考えられない。  ただ目を閉じて、この行為に没入したい。  腹の底から湧いてくる衝動にかられ、金本はほとんどそうしかけた。  だが、同じくらいにーー未知のものへの恐れに支配される。理性と、そして何年もの間に養われた用心深さが、衝動にまかせた行動へ突き進むのを許さなかった。  金本はいきなり黒木の肩をつかんで押しやり、身を引いた。  黒木はまだ行為の余韻の中にいた。だが何が起こったか悟ると、金本を恐ろしい目でにらんだ。怒りと、それ以上に深い悲痛と失望がそこに浮かんでいた。 「…酔っぱらってた。今の、忘れろ」  黒木はささやくように言い、顔をそむけた。 「もう遅い。そろそろ、帰れ」  口を開こうとする金本に向かって、黒木は犬でも追い払うように乱暴に手を振った。 「帰れって! 俺はもう寝る」  言うなり、その場に本当に横になってしまった。  ……金本が動く気配を、黒木は背中で感じ取った。  引き止めはしない。たとえ、そうしたくても自分からはできない。ただ金本がこのまま、出て行ってくれることだけが望みだった。  黒木はかたくなに目をつむった。  その時、ふいに肩に何かがかけられる感触がした。 「――できたら、布団で寝てください。風邪をひかないように」  金本の声は、初めて会った時と同じだ。  ぶっきらぼうな中に、こちらへの気遣いがにじんでいた。  つまらない矜持など捨てて、振り返りたい。黒木がその欲求と戦っている内に、玄関の戸が開いて閉まる音が、空っぽな部屋に響いた。黒木はしばらくじっと、その場に身を横たえていた。もう絶対に金本は戻ってこないと確信したところで、ようやく身を起こした。  金本が残していったものを手に取って、黒木は力なく嘲笑った。 「……あのバカ。どういう神経してんだ。自分の上着を置いていきやがって」  抱くとまだ温かく、金本が喫っているタバコの匂いがした。そのぬくもりと存在の残滓に、黒木は余計に心がえぐられた。  不意に母のことを思い出す。父親だった男に捨てられた哀れな女。 「はっ……」  鼻で笑う。母親と、その母にうり二つな自分を。  手に入らないものを求めて、自分勝手な恨み言を並べて、打ちひしがれる。  そんな情けない姿まで、そっくりだった。

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