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第4章⑮

 ――暦の月が十一月に変わったその日。  調布飛行場の上空は秋らしく、清らかに晴れ渡った。澄んだ大気を通して、遥かかなたの富士山の輪郭もくっきりと見える。  穏やかな晩秋の光景ーーそれと裏腹に金本の心はずっと、もやもやしたものを抱え込んでいた。よほど、表情に出たのだろう。普段、乗機に関わること以外で話しかけてこない整備員の中山にまで、「どこか具合が悪いんじゃないですか」と心配された。  近日、日本軍が台湾沖やフィリピン東部で珍しくアメリカ軍相手に勝利を重ねているという報道も、金本の抱える鬱屈(うっくつ)を拭い去るには至らなかった。  原因は言うまでもない。三週間前の夜の出来事だった。酔ったせいで見た夢だと、よほど思いこみたかったが、もちろん夢などではなかった。一夜明けた次の日、寝不足ぎみで飛行場に出勤すると、中山がおずおずと金本に近づいてきた。その手にはたたまれた金本の上着があった。聞けば、まだ夜も明けぬ時間に黒木がやって来て、「わたせ」と置いていったそうだ。受け取った金本は、じっとそれを見つめた。  その時、つくづく昨夜のことが現実に生じたことだと思い知らされた。  軍の内部で男同士の恋や、(とこ)での行為がひそかに行われているのは、金本も知っている。飛行学校にいた当時からして、誰それは〇〇の念弟だとか、そういう噂を何度も耳にしていた。ただ、自分が当事者になることはついぞなかった。お世辞にも「紅顔の美少年」と評されるような顔ではなかったし、同年代の学生たちの中でも体格はがっちりしている方だった。おまけに負けん気の強い性格ときていては、はなから上級生の狙う対象にならなかったのだろう。そして金本本人も、色恋なぞ軟弱者のすることだと、十代にありがちなつっぱねた態度で決めつけていて、頭の中は航空機のことと、成績を上げることしかほぼ頭になかった。  今の自分もその延長線上にいる――そのはずだった。  「忘れろ」と黒木は言い、酒に酔ったゆえの(たわむ)れとして、済ませようとした。だが、金本に突き放された時の黒木の顔を見れば――冗談などでないことは、どんな鈍い人間でも分かった。  金本は非常に複雑な気分だった。一番いいのは、黒木が言った通りにすることだ。あの夜のせいぜい十分かそこらの時間を、閉じ込めて蓋をして鍵をかけて、その鍵をどこかに捨て去ってしまえばいい。  ところが、それが中々、容易ではなかった。    ひとつには、黒木の態度に原因があった。あの夜の翌日から、黒木は今まで以上に露骨に金本を避けるようになった。無視していると言ってもいい。この三週間、金本が黒木と口をきいた回数は片手の指で数えられるほどしかない。それも訓練の前後、ピストで「はなどり隊」の搭乗員たちがいる場に限られていた。そうやって、とことん金本を避けながら――遠く離れた所から、思い出したように、荒涼とした目で無言の恨みを向けてくる。正直、針のむしろだ。  「はなどり隊」の搭乗員たちも、金本に対する黒木の態度の変化には気づいているようだ。ただし彼らはその原因が、剣道の訓練とそのあとに生じた取っ組み合いのせいだと思い込んでいる。その件について、八割方は金本に非があると考えていた(今村ほか)が、工藤をはじめ何人かは金本ばかりが悪いわけじゃないと、かたを持ってくれる者もいた。 ――……結局。  つきつめれば、黒木の態度は問題の一部分でしかない。  より根幹的に深刻な問題は――金本自身にあった。  忘れろと自分に言い聞かせながら、あれから一体、何回、何十回、思い出したか。黒木の唇のやわらかさや、ぬるりとした感触、絡めとるような動きをーー思い出すだけで、今でも頭がしびれてくる。  あの時、金本は黒木との行為をもっと続けたいと思ってしまった。  認めたくないが――間違いなく、自分は黒木に欲情していた。黒木が金本を求めたように。  狂気の沙汰だ。そうとしか思えなかった。同性だという点もさることながら、よりにもよって、相手はあの黒木である。この上なく美しいが、性格は最悪な男。  そんな男に――……ああ、認めよう。金本は魅かれていた。  魔物めいた美貌も、底意地の悪い性格も、尋常ならざる言動も、空戦の技量もそれへの真剣な態度も、わずかに垣間見せた孤独も、全部ふくめて――黒木栄也に、魅かれていた。  だからと言って――それ以上、金本はどうすることもできなかった。  黒木と自分の気持ちに従って、その先へ進むことは、どう考えても現実的ではなかった。  忘れるべきだ。結局のところ、黒木の放ったひと言が、一番まっとうな選択肢だ。  今は同じところをぐるぐる回って、足踏みばかりしているがーー時間さえ経てば、黒木も自分もこの気の迷いのような感情に、きっと折り合いをつけられる。  そうする以外に、選択肢などあるはずがなかった。  ……金本は息を吐き、航空時計を取り出した。午後一時を過ぎている。訓練の開始時間を考えれば、そろそろピストに戻り、準備を始めなければならない。  重い足取りで歩き出す。そのまま滑走路に沿って、百メートルほど進んだ時だった。  突然、戦隊本部に取り付けられた拡声器が、ガアっという雑音を上げた。  それに続いて、内臓まで総毛だつような警報が、飛行場内に鳴り響いた。  金本は足を止め、反射的に南の空を仰いだ。何も見えない。  だが敵の航空機は、今この瞬間にも、海の彼方から轟音を上げて近づいてきているはずだ。 「東部軍管区、警戒警報―――」  拡声器ががなり立てる。金本ははなどり隊のピストを目指して、全力で駆け出した。

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