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第5章⑦
クリアウォーターが対敵諜報部隊 のソコワスキー少佐のもとから辞去しようとしていた頃。カトウは桜田門にある警視庁を訪れていた。小脇順右の正式な検死報告書が今日の午後、出来上がるということで、それを受け取る用事をおおせつかって来たのだ。待たされたものの、幸い一時間ほどで目的のものを手に入れることができた。
報告書を入れたカバンを手に、用事を済ませたカトウは警視庁を出る。外に一歩踏み出すと、夏の陽射しが容赦なく降り注いできた。陽炎 の立つ道路に、市電の線路が眠たげに横たわっている。その線路の向こうには、大きな濠で囲まれたエリア。この国のエンペラー が住まう皇居である。
濠に沿って進むと、暑さの中、釣り糸を垂れる釣り人の姿がちらほら見えた。さらに皇居前の広場にさしかかると、アメリカ兵 と肩を並べて歩く日本人女性と何人もすれ違った。女性たちは兵士のたくましい腕に手を回し、いかにも楽しげだ。そのどちらも、カトウが子どもの頃は考えられなかった光景である。もっとも、自分がアメリカの軍服を着て、かつて陸軍省や海軍省が並んでいた街区をひょいひょい歩くことなど、もっと想像を絶していただろうが。
カトウは東京駅の方へ向かっていた。駅前でクリアウォーターと落ち合う約束だったからだ。あちらはもう用事を済ませただろうかと、そんなことを思いながら、日比谷公園前を通り過ぎようとした時だ。
カトウは偶然、一人の男とすれ違った。
「――ヘイ! そこのおチビさん!」
ハスキーな声に、カトウは思わず足を止めた。振り返ると、そこに麦わら色の髪とやたら長い手足を持つ青年が腰に手を当てて立っていた。
一度しか会っていないにも関わらず、カトウは相手が誰かすぐに思い出した。カトウを乗せた小型飛行機で、曲芸のまねごとをした迷惑な人物ーー。
第五航空軍所属のエイモス・ウィンズロウ大尉だった。
「奇遇ね。こんなところで再会するなんて」
「…そちらこそ。調布にいるんじゃなかったんですか」
「次のフライトのことで呼び出しを受けたのよ。ほら、すぐそこの航空輸送司令部に」
丸の内警察署のすぐそばにあるビルをウィンズロウは指さした。
「ワタシ今、輸送機の仕事が多いから。その関係で時々、この辺にも来るの」
「さようで……」
言いながらカトウは早くも回れ右しようとしている。もしクリアウォーターが先にジープに戻っていたら、この暑さの中、待たせるのは申し訳ない。
「じゃあ、俺はこれで…」
「あ、ちょっと。どっちの方向に行くの?」
「東京駅の方ですけど」
「なら、同じね。途中まで一緒に行きましょう」
「……今しがた、俺と反対方向に行こうとしてませんでしたか?」
「えー、そうだっけ。ま、細かいことは気にしない」
わざとらしく言って、ウィンズロウは強引にカトウの横に並んだ。
カトウは不審もあらわに航空軍の大尉を見上げた。だが、同行を断る理由も思いつかなかったので、仕方なくそのまま歩き出した。
ウィンズロウはカトウと並ぶと、ニコニコしながら聞いてきた。
「あなたの仕事場、この近くなの?」
「いえ。たまたま済ませる用事あって、来ただけです。普段は別の場所で働いています」
「あら、どこ?」
この質問にカトウは閉口した。U機関 で働いていることは、みだりに他人に明かしてはいけない。配属された時、サンダースにさんざん注意されたことだ。
「……すみません。どこで働いているかは、言ってはいけないことになってて」
「何それ。変な決まりね」
ウィンズロウは口をとがらせた。
「ま、いいわ。上司や同僚とはうまくやってるの?」
「ええ、まあ」
「いいわね。ワタシの所はサイアクよ! 上は頭固いし、仲間は仕事はできるけど、意地悪で冷たい奴だし――」
ウィンズロウは早口でまくしたてた。職場の不満を吐き出すその勢いたるや、ドイツ軍の急降下爆撃機 顔負けだった。どうにも愚痴を言う相手が欲しかっただけらしい――そう思ったカトウは、黙って聞き役に徹した。
そうやって歩く内に目的地が見えてきた。
東京駅は今年の三月に戦災からの復興工事が終わったばかりで、八角形の特徴的な屋根を持つ二階建ての駅舎として生まれ変わった。駅前のロータリーから少し離れたところに、ウィリス・ジープが停まっている。運転席で動く鮮やかな赤毛は、遠目でもすぐに識別できた。
クリアウォーターは人の往来を見るともなしに見ていたが、まもなくこちらに歩いてくるカトウの存在に気づいた。そのかたわらに立つ、妙に手足の長い男のことも――。
「…ビンゴ」
カトウの頭上で、ウィンズロウ大尉が小声で喝采を上げた。
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