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第5章⑨
この時、クリアウォーターは以前、サンダースと交わした会話を思い出した。
彼のインド人の祖母は孫のスティーヴに向かって、常々こう言っていたそうだ。曰 く「正直は、最低限にして最高の美徳」とーークリアウォーターはその格言に従うことにした。
すなわち、カトウに包み隠さず打ち明けたのである。
「ウィンズロウ大尉と私は、短い間だがつきあっていた時期があった。先の大戦中だ」
「恋人だった、ということですか」
「ああ。そうだ」
その返事はカトウにとって、半ば予想していたものだった。それでも、自分で思っていた以上にショックを受けた。
クリアウォーターに昔、恋人がいた話は、同僚のフェルミから聞いていた。カール・ニースケンスという人物で、クリアウォーターと別れて女性との結婚を選んだという。そこから考えれば、ほかに誰かとつきあっていたとしても、まったくおかしな話ではない。
ただ、過去の話として聞くだけなのと、実際に恋人だった人物が目の前に現れるのは、全く次元が違う。
「――ずいぶん、仲がよさげでしたね」
口をついて出た言葉のとげとげしさに、カトウは自分でも驚いた。
幸い、クリアウォーターはそれを聞いても気分を害した様子はなかった。ため息交じりに、赤毛の少佐は続けた。
「そうだね。向こうは私と仲良くしたいようだ。実は先週、電話をかけてきた時も、食事に誘われた。断ったけどね」
クリアウォーターの緑色の瞳を、カトウは無言で見つめ返す。うそはついていないと、直感が告げている。
けれども、自分の勘を無条件で信じていいか、この時ばかりは自信がなかった。
「――今さら、ウィンズロウ大尉とヨリを戻す気はまったくないよ」
クリアウォーターは静かに断言した。
「こちらからは、なるべく会わないようにする。それで、許してくれるかい?」
「許すって……」
「君に嫌な思いをさせたこと」
「そんなことは――」
そう言いながらも、顔に血がのぼって火照るのをカトウは感じた。
クリアウォーターの指摘は図星だった。
ウィンズロウがクリアウォーターに見せた親密な態度。思わせぶりな目つきーーそのすべてが、今になって腹立たしかった。同時にカトウは気づく。
自分が抱いている怒りの何割かは、赤毛の恋人に向けられたものだ、と。
――理不尽な考えはやめろ。
カトウは自分に言い聞かせた。クリアウォーターに怒りを向けるのは筋違いだ。第三者 のことで、クリアウォーターとの間がぎこちなくなるなんて愚かしいーーそう思うことで、少しは冷静になれた。
ただ、心の平安を取り戻すには、もう一歩足りない。
ほかのものが必要だった。
「……許しますよ」
カトウはそう言って、つけ加えた。
「そのかわり。今晩、夕食の後、九時ぐらいにうかがってもいいですか?」
それを聞いたクリアウォーターは、屈託のない笑みをひらめかせた。
「もちろん」
クリアウォーターは素早く周囲をうかがった。残念ながら、人通りが絶える気配はない。カトウにキスするのを断念し、そのかわり人差し指を自分の口に当て、軽く舌を出した。
「――君を、じっくり味わわせてくれ」
カトウは顔を赤らめて、うなずいた。
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