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第5章⑩

 ジープを走らせながら、クリアウォーターは内心でほっと息をついた。 ーーカトウが機嫌を直してくれた。  やはり正直に話してよかった。あとはウィンズロウ大尉が、このまま引き下がってくれるのを祈るばかりである……。 ーー「ジョージ・アキラ・カトウを悲しませちゃだめだよ、ダン」  いつぞやか、部下のフェルミと交わした会話がクリアウォーターの頭をよぎった。  それは、まだクリアウォーターが『ヨロギ』の事件を捜査していた頃のことだ。  今はU機関に属すトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長がクリアウォーターの部下となったのは、先の大戦中のことだった。  フェルミはクリアウォーターのもとで働くようになってほどなく、赤毛の上官に対して抱擁や頬への口づけを求めるようになった。誤解がないように言うと、そこに性的な意味はない。迫撃砲弾によって顔面の半分が醜く崩れてしまった青年にとって、それは一種の代償行為だった。なにぶん、世の女性たちは、彼の顔を恐れて近づこうとすらしない。求めても得られない愛情表現を、フェルミは上官兼保護者となった人物に求めたのだ。  そしてクリアウォーターは、その部下の求めにいつも応じてきた。  ところがある時、フェルミの方からそれを終わりにしようと言い出してきた。  それはフェルミがカトウと一緒に入院中だったヤコブソンのもとを訪れてから、しばらくし経過した後のことだった。 「ーージョージ・アキラ・カトウと、うまくいっているみたいだね。よかった」  フェルミはそう言って、クリアウォーターの恋の成就を祝福した。その時、いつもの抱擁を求めなかった。クリアウォーターがそのことを指摘すると、フェルミは真顔で答えた。 「ジョージ・アキラ・カトウがね。ぼくとダンが抱き合ったり、ほっぺにキスしているのを見て、すごく嫌な気持ちになってたんだ。だから『もうしない』って、彼と約束したの」 「そうだったのかい」 「うん。ぼく、彼の友だちだから」  フェルミは胸を張る。それから、クリアウォーターを見上げた。 「ねえ、ダン。ジョージ・アキラ・カトウは、とてもいい子だよ。たくさん辛い目にあってきただろうに、人としての優しさを失っていない。きっと君が考えているより、ずっと多くのものを彼は君に与えてくれる。だから―ー」  普段はふわふわと夢見がちな茶色の瞳に、いつになく厳しい光が宿った。 「絶対に浮気するなよ。彼を裏切ったら、ぼくが許さない」 「…分かった」クリアウォーターは神妙に答えた。 「神に誓って?」 「神に誓って」 「ぼくにも約束する?」 「ああ。約束する」  クリアウォーターの返事を聞いて、フェルミはようやく満足したようだった。 「ジョージ・アキラ・カトウを悲しませちゃだめだよ、ダン。彼はとってもいいやつで、ぼくの友だちなんだから」  ……U機関に戻った後、クリアウォーターは自分の執務室にこもった。資料を並べ、思いついたことを次々と紙に書きだす。副官のサンダースがノックした時も、集中しすぎていて、すぐにその音に気づかなかったほどだ。 「なんだい?」 「いえ、退勤時間をかなり過ぎているので、様子を見にきたのですが」  その言葉に、クリアウォーターは置時計を見る。すでに六時半をまわっていた。

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