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第6章①一九四四年十一月

 鳴り響く警戒警報の中、金本はピストを目指して駆けた。その間、飛行場全体がヒステリックな緊張感に包まれていくのを、肌で感じた。整備員たちがあちこちから飛び出して、走っていく。ある者たちは滑走路へ、別の数人は掩体壕の方へ。いずれも、自分たちが受け持つ機体を一秒でも早く始動させるためだ。中には昼食を突然、中断させられた者もいたようで、格納庫の前に茶わんや箸が地面に放りだされ、ひっくり返すにまかされていた。  金本がピストにたどり着いた時、そこにはすでに「はなどり隊」の面々が集まっていた。今村がいる。工藤がいる。竹内、米田、林原……ざっと見た限りでも、八割方の搭乗員が戻ってきていた。全員、午前の訓練時の格好のままだ。あとは落下傘さえ付け直せば、いつでも飛び立てる。  金本がそれを装着している時、滑走路では早くも武装司偵(武装司令偵察機)が轟音を上げて飛び立っていった。当直の飛行中隊の所属機だろう。その機影が小さな点となって、空の彼方へ溶け去るより先に、隊長の黒木が姿を現した。 「準備ができたやつから、ピストの外に整列しろ!」  よく響く声で黒木は搭乗員たちに告げた。落ち着きはらった物腰には、不安の欠片さえない。金本は「さすがだ」と感心する。ピストの中を鋭い視線で薙ぎ払った時も、黒木は金本の存在を家具か壁の染みのように無視した。  その時、戦隊本部の拡声器が再びがなり立てた。 「東部軍管区、空襲警報――」 「…来やがった」  黒木はつぶやいた。警戒警報から空襲警報へ――それは敵機の東京への飛来が確実となったことを意味した。 「命令変更! 準備ができたやつは自分の機に急げ!」  鞭打たれたように、搭乗員たちが半長靴を翻して駆け出す。金本もだ。  愛機にたどり着く頃には、すでにあちこちで「はなどり隊」やほかの隊の「飛燕」がプロペラを回し始めていた。エンジンの轟音の合唱をぬって、整備班長の中山が近づいてきた。 「報告します! 燃料、弾薬ともに搭載完了。いつでも離陸できます」 「承知した!」  金本は主翼に手をかけ、操縦席へよじのぼる。その間に整備員がクランク棒で慣性始動機を回す。十分な回転数を得られたところで、 「点火!」  中山のかけ声で、金本はエンジンを始動させた。午前中に動かしていたこともあって、暖まっていたエンジンは一発で動き出した。計器を確認する。それから酸素マスクをつけようとした時、無線機に作戦室からの命令が入った。 「はなどり、はなどり。ながと、ながと。あおぞら、あおぞら……」  金本の背中にかすかな緊張が走った。聞き間違いではない。この命令の意味はこうだ。 「はなどり隊。こちら調布作戦室。離陸せよ――」  金本は開いた風防ごしに中山に叫んだ。 「離陸する!」  聞いた中山の顔が一瞬、こわばる。だが、すぐに表情をひきしめ、金本に言った。 「どうかお気をつけて―ー」   それから整備員の方を振り返る。 「チョーク、外せ!」  中山の声に、ほかの整備員たちが飛燕の前輪にかませていた車輪止め(チョーク)を外す。金本は慎重に滑走路へ機体を進めた。  向かう先では、はなどり隊の飛燕が一機、また一機と飛び立っていく。まもなく、金本の番が来た。誘導路の方から来た中山たちが、整列して帽子を振っているのが目の端にうつる。  彼らにほんのかすかにうなずいて、金本は愛機を発進させた。  エンジンが回転数を上げる。走り始めた飛燕が徐々に加速する。時速一五〇キロ。一八〇キロ――南北一〇〇〇メートルある滑走路がまもなく尽きようという時、時速二〇〇キロを超えた。金本は操縦桿を引いた。足元から軽い浮遊感が伝わる。  直後、三〇〇〇キロを超えるジュラルミンの燕が、すっと地面を蹴って羽ばたいた。

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