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第6章④

――今日に限って、追いかけてきやがって。  黒木は本気で、金本の首の骨をへし折ってやりたいと思った。完全に、個人的な恨みからくる衝動である。幸いというべきか、黒木や金本の腕がどんなに長くても両者の間には今、埋めがたい距離がある。それを自覚して、黒木は少し頭が冷えた。  酸素マスクの下で、ゆっくり浅く呼吸する。そうやって、金本の存在を頭から締め出した。  黒木は、B29の下方二〇〇メートルまで迫っていた。深海から船底をのぞくような気分だ。先刻まで後ろをついていた武装司偵は限界がきたようで、すでに姿を消していた。 ――限界はこっちもだが。  残り二〇〇メートルの高度差が、どうにも埋まらない。手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。いらだつ黒木だったが、ふとあることを思いついた。  すぐに機銃の発射ボタンに手を伸ばすと、搭載された12.7㎜機銃を虚空に向かって勢いよく撃ちだした。全弾撃ち尽くすのに一分もかからない。そして弾を全て撃ったことで、重量が一気に数十キロ軽くなった。  黒木は再び上昇を試みた。目論見は当たった。ゆっくりとだが、機体が上がり始めた。  機首を上げた状態で、「飛燕」はB29へと近づく。零下五十度近い極寒の中、手足の感覚が失われつつある。それでも――何かにとり憑かれたように、黒木はひたすら上を目指した。  だが、彼我(ひが)の高度差が一〇〇メートルほどまでに縮まった時、B29が突然、速度を上げた。懐に忍び寄ってくる敵に気づいた――わけではなかろう。そうであれば、即座に反撃に出たはずだ。遠巻きにする「飛燕」の存在など目もくれず、B29は一発の銃弾も撃つことなく、旋風を巻き起こしながら東へと去っていった。  その後ろ姿を黒木は茫然と見送るしかなかった。  午後三時、空襲警報が解除された。  それと同時に、出動したすべての航空機に対する帰投命令が下った。調布飛行場では、千葉や中山たち整備員が滑走路の近くに並び、飛燕の帰還に備えて待機していた。  誰もが空を見上げ、彼らが送り出した飛燕と搭乗員たちが戻って来るのを、今か今かと待ち構える。そして――。 「……戻ってきたぞ!」  目のいい一人が、空の一角を指さした。千葉は手をかざし、その方向へ目をこらした。まもなく、彼にも小さな黒点が見えてきた。千葉は近づいてくる機影を息をつめて数えた。  そうやって数え終えて、ようやくひそめていた眉を開いた。 「……やった! 全員無事だ」  そばにいた中山が小さな歓声を上げる。  まもなく、「はなどり隊」の飛燕が轟音を上げて、次々と滑走路に滑り込んできた。 「おかえりなさい!」  降りてきた金本の機体に駆け寄り、中山は言った。操縦席の金本は、 「…ああ。戻ってきた」  かろうじてそう返した。身体も心も疲れ切っていた。  中山はすぐに察したようだ。上空でどうだったかなど、余計なことは一切聞かず、お茶を入れた水筒を金本に差し出した。金本は礼を言って受け取ると、それをあおった。少しだけ人心地がつく。しばらくそのまま、操縦席から動きたくない気分だった。だが、そんなぜいたくは許されない。  すぐに操縦席から滑走路に降りると、中山に水筒を返し、「はなどり隊」のピストへ重い脚を引きずって歩いて行った。

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