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第6章⑧
金本にとって幸いなことに、黒木はいきなり「黙れ、頭でっかちめ」などと暴言を吐いたりしなかった。そのかわり、
「……敵を逃がしたのは、自分の不徳の致すところです」
神妙に答えた。だが、もちろんそこで終わったりはしなかった。
「しかしながら、あの場で体当たりするのが最善の方策だったとは、自分には思えません」
「なに……」
「ご存じと思いますが、米軍の大型爆撃機は胴体の上下方と尾部を、機銃や機関砲で武装しています。その弾を避けて、接近する方法は限られています」
黒木は自分の右手をB29に、左手を攻撃する自機に見立てて説明した。
「基本的に、敵を上空で待ちかまえて奇襲をかける以外にない。さらに、攻撃をかける場合、銃座の死角になる場所から狙わなければなりません。その時、最適なのは――」
黒木は直角に立てた左手の指で、右手の甲を軽く突いた。
「敵機の直上です。真上から急降下して、胴体かエンジンを狙う。あとはせいぜい、前方上方か下方から攻撃が考えられますが、どちらも銃座の餌食になる可能性がある。そして残りは――近づく前に、蜂の巣にされること必須です」
黒木は言った。
「あの時、俺たちは補足したB29に下方から近づいていた。敵の高度は一万メートル、我々の乗機『飛燕』ではその高度に上がることさえ困難でした。一番近づけた自分でさえ、射程圏内にB29を捉えることはできなかった。そんな状況で、体当たりは現実的ではありません」
努めて論理立てて説明したつもりだった。
しかし、河内大佐が黒木に向ける目は、まるで出来の悪い生徒を見る教師のそれだった。
「……貴様は何も分かっていないな、黒木大尉」河内は言った。
「地上からも、あのB29は見えた。たった一機の敵に対し、何百発という高射砲も、何十機もの戦闘機も、なすすべがなかった。まんまと敵を逃がし、しかもその醜態を白昼、東京の何百万という人間の前にさらしたんだぞ。貴様たちが意気地のないせいで、我々はいい恥さらしだ。さらに、そのせいで、畏 れ多くも陛下の宸襟をわずらわせることになった。そのことの重要さが、分かっていないのか?」
ーー……事の重大さが分かっていないのは、てめえらの方だ!!
黒木はよほど、声に出して言いたかったし、半分くらいはそうするつもりだった。しかし、口を開く寸前で、伸びてきた誰かの握り拳に腰をけっこうな強さで叩かれた。そちらに気を取られたせいで、発言の機会を逸した。
その時、河内はこの場に来てから、ずっと沈黙を保っている人物に目を向けた。
「おい、そこの……何という名の搭乗員だった?」
黒木の注意を引いて、からくも破局を回避した功労者は、その声に素早くかしこまった。
「金本勇曹長であります」
「貴様はどうだ? 敵をみすみす見逃して、恥ずかしいと思わないか」
「それは……恥ずかしいです」
「貴様なら、どうだ。近づくことができたなら、体当たりしたか?」
金本は返答に窮した。
体当たりしたと答えたら、黒木の立場がない。だが、しなかったと答えれば、はなどり隊の搭乗員全員が命を惜しむ臆病者だとみなされかねない。
全員の目が金本へと集中する。
「………もしも」
必死に頭をひねり、金本は絞り出すような声で答えた。
「もしも、出撃時に体当たりを厳命されていたなら、体当たりをしました」
黒木の目に瞬間的にひらめいた殺気を、金本は見ないようにした。
質問者である河内は、口ひげを震わせ冷笑した。
「小賢 しい答えだ。だが、金本曹長の方が、まだしも日本男児としての根性を持ち合わせて
いるようだな」
悦 に入る河内に対し、黒木が絶妙なタイミングで言った。
「金本勇曹長は、朝鮮人ですよ」
そのひと言で、場が一瞬でしらけた。それ以上、冷え冷えしたものになるより先に、戦隊長が割って入った。
「そろそろ、よろしいでしょう。黒木大尉、金本曹長、ご苦労だった。退室してよろしい」
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