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第6章⑨

 退出したあと、金本は黒木に戦隊本部に近い掩体壕のそばに連れていかれた。そこで、黒木に思いきり顔を殴られた。今までで一番、手加減のない一発だった。  ふらつく金本の胸ぐらをつかみ、黒木は掩体の外壁に押しつけた。 「……余計なことを言いやがって」  大きな瞳に、暗い憤怒が燃えていた。 「『命じられれば体当たりする』だと? お前、分かってんのか? あの河内とかいうボケナスの大佐に、まんまと(てい)のいい言質(げんち)を与えたんだぞ」  金本を締め上げる手に力がこもる。正直、息苦しい。このままいくと、本当に窒息させられそうだ。 「……新聞に()ったから、お前も知っているだろう? 十月に海軍の航空隊がフィリピン沖で米軍の戦艦に派手な体当たりをかました。噂では、戦果が上がったのをいいことに、海軍は内地で体当たり専門の部隊をいくつも編成して、フィリピンに送り込む計画らしい。海軍に戦果を上げられて、陸軍の上層部は今、焦ってる。あのちょびヒゲ大佐や、その仲間は、海軍がやっているのと同じようなことを考えているに決まっている」  黒木がわずかに力をゆるめたので、金本はやっと息を吸えた。 「………同じようなって?」 「体当たり専門の特別攻撃隊―-特攻隊の編成だ。とにもかくにも、目先の戦果さえ上がれば、やつら(上層部)の面子はどうにか立つ。自分たちの命令がどんな意味を持つか、深く考えもせずにな!!」  黒木はまた一発、こんどはみぞおちのあたりに入れた。もっとも、片方の手で金本の胸ぐらをつかんだままだったので、最初の一撃ほどのダメージはなかった。 「考えが足りないって意味では、お前も同じだ。格好をつけやがって、この――」  平手が飛んでくる。それを顔に受けた後、金本は口を開いた。 「…『腹をくくれ』と言ったのは、いったいどこの誰です?」  口の中が鉄くさい。血の混じった唾液を、金本はこみ上げる吐き気と一緒に嚥下(えんか)した。 「俺も、あなたも軍人だ。どんなひどい命令でも、それが命令なら従う以外にない。体当たりしろと言われたら、行く以外にない。違うか?」  それを聞いた黒木は顔をゆがめた。また殴るのか、と金本は思った。だが、そうではなかった。黒木は金本の耳に口を寄せ、低い声でささやいた。 「――この戦争は(イジャンジェネ)日本の負けだ(イルポネペベイダ)」  黒木が朝鮮語で発した言葉に、金本はぎょっとなった。反射的に周囲を見る。誰もいないと分かっていたが、それでも胸の動悸が止まらなかった。 「本音を聞かせろよ、金本。いや、金蘭洙(キムランス)」  金本を見つめ、黒木はなお言いつのった。 「『内鮮一体』(※日本が掲げた同化政策の一環としてのスローガン。朝鮮に対する差別をやめ、日本本土に同化させようというもの)などと言うが、日本人は本当の意味で朝鮮の人間を同胞と認めたことは一度もない。これまでもないし、これからもないだろう。この国に、命をかけて尽くす義理があると、お前は本当に思っているのか?」    金本はすぐに答えられなかった。  黒木は、金本の忠誠をためしているのか?  それとも――本当にただ本音を聞きたいだけなのか?

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