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第6章⑩

「……たしかに、俺は日本人じゃない」  金本は言った。久しぶりに発した故郷の言葉。こんな状況であるのが残念だった。 「だけど、俺は日本の、帝国陸軍の軍人だ。誰に強制されたわけでもない。俺は自分でこの道を選んだ。死ぬ覚悟はできている」   本音かどうかは問題ではない。言うべきは、これしかなかった。  だが、その答えは黒木を満足させなかったようだ。黒い瞳を冷ややかに光らせ、金本をにらむ。そして――。 「兄弟で、ここまで考え方が違うとはな」  バカにしたように吐き捨てた。  金本の顔がさっと強ばった。黒木は嘲りを唇に刻み、決定的なひと言を投げつけた。 「お前、大逆事件を起こした金光洙(キムグァンス)の弟だろう?」  それを聞いた途端、金本の見る景色が血の色に染まった。  気づくと、右のこぶしにありったけの力を込めて、黒木にたたきこんでいた。  黒木は敏捷だった。とっさにのけぞり、腕をかざして顔を守る。それでも、その場に踏みとどまることはできず、後ろに吹っ飛んだ。黒木が地面に倒れる。その上に、金本は馬乗りになった。 「――その名前を口にするな」  金本は黒木の首に手をかけ、力をこめた。身体の下で黒木が暴れる。あちこち殴られたが、金本は巨岩のようにびくともしなかった。 「今度、その名前を言ってみろ。二度と口がきけないようにしてやる」  黒木の顔が酸欠で赤くなる。金本を殴る力が徐々に弱くなる。気絶する寸前のところで、金本は黒木を解放した。  そして、咳き込む相手に目もくれず、その場を立ち去った。  ………それからほどなく、戦隊本部の建物から三人の参謀が現れた。それぞれ、待たせていた公用車に乗り込み、自分たちの所属する機関に報告を行うべく、調布飛行場をあとにする。  その一人、大本営の河内作治大佐は、乗車してからしきりに、後部座席の窓ガラスをコツコツと指で叩いてきた。 「……金本勇……朝鮮人……どこかで耳にした名前だが、はて……」  思い出そうとするが、中々うまくいかない。河内がようやく、ある記憶に行き当たったのは、新宿を過ぎたあたりだった。 「金本勇。まさか、あの時の学生か?」  車はたまたま、交差点で停車していた。発進する直前、運転手は大佐が(いきどお)ったようにつぶやくのを、はっきり聞いた。 「とうに死んだと思っていたが、まだ生き恥をさらしていたか。死にぞこないめ」

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