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第6章⑪

 最初のB29襲来から一週間の間に、さらに二度、この大型爆撃機は帝都上空に姿を現した。十一月一日の来襲について、当初、B29は三機編成で来たと報じられたが、後にただ一機であることが判明した。そして二度目と三度目も、単機ないし二機でやって来たため、爆撃を伴わない、偵察が目的と考えられた。  そして三回とも、東京及び近郊の飛行隊は、ものの役に立たなかった。いずれもやって来たB29を撃墜することはかなわず、まんまと洋上へ逃してしまったのである。都合三度の敵機来襲において、「はなどり隊」が接敵できたのも最初の一度きりだった。 「…間に合わないのも無理ありません」  夜半、飛燕を改修する千葉は手を止め、そばで見ていた黒木に小声で伝えた。 「B29の来襲は、八丈島で最初に把握します。B29が八丈島上空から東京上空に来るまでは、計算上、一時間程度です。それに対し、こちらが出動命令を受けてから離陸し、高度一万メートルに到達するまで、どんなに急いでも八十分はかかります。米軍は明らかにその優位を見越して、高高度で来るんだと思います」 「理にかなったやり方だ」  黒木は舌打ちした。不本意ながら、認めざるを得ない。戦術ひとつとっても、アメリカ軍は極めて合理的だった。 「…上の方々は何と?」  千葉が疲労のたまった顔を向ける。千葉たちが所属する整備班は、この一週間、高高度飛行のための改修と飛燕の軽量化に、連日かかりきりだ。それでも、上昇高度を上げるのに、十分な効果が出ているとは言えない状態だった。  千葉の問いに、黒木は目を細めた。 「とにかく、『墜とせ』の一点張りだ。あとは搭乗員たちの根性が足りないとか、役にも立たん文句ばかり。始末に負えん…」  とはいえ、黒木自身にも良策があるわけではなかった。  B29との高度差が、日本とアメリカの力の差を象徴しているように思えてならない。  それは両国の技術力、ひいては国力の差だ。 ーーこの戦争は負けだ。万にひとつも勝つ見込みはない。  その確信は日を追うごとに膨らむばかりだ。それでもーー日頃、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)を極める黒木であっても、めったなことで口にはできない。  黒木は首のあたりをなでた。いつ敵機がやって来るか分からない現在、起きている時はほぼ飛行服姿だ。その格好のおかげで、ピストや、飛行場内に設けられた将校・下士官用の仮泊所で寝泊まりしている夜も、他の搭乗員に、首のあざに気づかれた様子はなかった。  言うまでもない。金本に首を絞められた痕だ。さすがにもう消えかけていたが、あの時のことを思い出すと、いまだに苦い味が、酸欠の記憶と一緒に、舌の上にこみ上げてくる。 ――お前、金光洙(キムグァンス)の弟だろう――  そう言った時、確信があったわけではなかった。黒木が見た金本の経歴書には、そんなことは一文字だって書いていなかった。「(キム)」は朝鮮人には一番ありふれた苗字である。名前の一字が共通するとはいえ、それだけでは決め手にならない。  だが、事件当時、内地の新聞で金光洙(キムグァンス)について報道されたことを、黒木はよく覚えていた。  済州島(チェジュド)出身者が大半を占める大阪の朝鮮人地区に住んでいた、咸鏡北道(ハムギョンブクト)を本籍とする青年。  金本勇は同じ本籍地で、飛行学校に入る前は大阪の同じ地区に住んでいた。二人に血縁があること、ひいては年齢差から兄弟であることは容易に推察できた。  そして、そのことを指摘したせいで、黒木は金本の逆鱗に触れてしまった。黒木はあのあと、底なしの自己嫌悪にかられた。けれども、もう取り返しがつかない。なぜだろう。金本のことが好きだ。それなのに、その言動に腹を立ててしまう。思い通りにいかないと、金本を殴らずに済ませられない。思惑通りにいかないと、嘲笑(わら)わずにはいられない。やること、なすことがすべて裏目に出て、嫌われる方向にばかり行ってしまうーー。  黒木に殴られた金本は数日、顔を()らしていた。それも、あらかた目立たなくなってきている。金本の反応が怖くて、黒木はずっと彼を避けていた。妙な話だがこの一週間、金本が黒木につけた首のあざと、黒木が金本を殴った痕が、二人をつなぐ最後の糸だった気がする。  それも、あと一日か二日で消える。  そのあとにはもう、どうやっても埋めようのない亀裂が、自分と金本を永久に隔ててしまう。そんな気がしてならなかった。

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