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第6章⑫
金本もつらい一週間を過ごした。
黒木への怒りがおさまらない。それは自分の――というより兄、光洙 との関係が、周囲へ露見することへの恐れの裏返しであった。
その一方で、怒りにまかせて黒木の首に手をかけたことを、金本は時間が経つほどに後悔していた。たとえ相手が、金本が一番触れてほしくない事実を無神経につきつけてきたとしても。一歩間違えれば、ケガでは済まなかった。
いよいよ黒木に報復されるのでは――罰せられればいっそ、気が楽だ――と、金本は思っていた。だが、それもないままだ。
黒木のことを考えると、金本は二つの感情の間で引き裂かれそうになる。
時々、本気で殺したいと思うくらいに憎くなる。それなのに、黒木の声を、顔を、あの十月の一夜に触れ合った時の体温を欲している。
そんな相反する心情を抱え、金本は自分からは黒木のことを避け続けていた。よくしたもので、黒木の方も金本を避けていた。ピストや仮泊所で寝泊まりしている間、金本は黒木とろくに口もきかないし、目も合わせなかった。
そのかわりと言うか――ほかの搭乗員たちとの会話は増えた。
アメリカ軍の本土来襲という現実を前に、ほとんどの者が不安を抱えている。以前、金本に向けられていた搭乗員たちの敵愾心 はこの頃、急速に薄れつつある。金本はそれを肌で感じていた。
「みんな、金本曹長を頼りにしているんです」
中山はそう力説してやまない。最初の敵機来襲以来、中山は金本のいちばんの話し相手になっていた。ただ、自分が整備する機体の搭乗員ゆえに、どうも金本をかなりひいき目で見ている気がする。
もう少し、冷静に分析してくれたのは千葉だ。
「今まで目の上のたんこぶだったお人が、敵を前にして頼れる実力者だと気づいたんでしょう。見方が変わるのは、自然の流れですよ」
搭乗員たちの中で、もっとも話しかけてくるようになったのは工藤少尉である。以前、剣道で金本と一戦を交えた大柄な男だ。最初は空戦のことがもっぱらの話題だったが、やがて他のことにも話題が及ぶようになった。
「――俺は特操 の出身だ」ある時、工藤は言った。
特操とは、特別操縦見習士官の略称である。これは、航空兵の不足を補うために陸軍が始めた制度で、高等教育を受けた青年に短期間で操縦者としての技能を習得させ、実戦に送り込むことを目的としていた。
何の学校に通っていたのかと金本がたずねると、工藤は「師範学校だ」と返した。
「家にあまり余裕がなくてな。高等小学校を卒業した後、中学への進学をあきらめて、教員を目指したんだ」
だが、戦局が逼迫 してくる中、徴兵という言葉が現実味を帯びて工藤の周りに忍び寄ってきた。いずれ徴兵される身なら、ただの一兵卒じゃなくて、将校になれるほうがいい――そう思って、特操に志願したとのことだった。「はなどり隊」では、ほかに今村などが工藤と同じく特操の出身とのことだった。
「志願の動機が動機だから。少飛 出身の連中にくらべると、少し……引け目がある」
工藤はそう内心を吐露した。少飛とは少年飛行学校のことで、搭乗員及び航空技術者を目指す十代の少年に、専門の教育を施す陸軍の教育機関だ。戦局の拡大に伴い、必要とされる搭乗員の数も年を追うごとに増大したため、金本が受験した頃に比べると、難易度は大分下がっている。とはいえ、最初から最前線へ派遣されることを覚悟の上でこの世界に飛び込むため、気迫のこもり方が違う――と、搭乗員や関係者の間では、一般に目されていた。
工藤の話を聞き終え、金本は言った。
「…飼っている犬がいい番犬かどうかは、犬の種類で決まるわけじゃない」
首をかしげる工藤に、金本は説明した。
「たとえ、見てくれがよくない犬でも。よく吠 えて、盗っ人にかみついて追い返すことができる犬が、いい番犬だ。犬の種類や血統ではなく、大事なのはそいつの行動だ」
聞き終えた工藤はしばらく金本を眺めてから、「…そうだな」と言った。
金本のたとえはそんなにうまくなかったが、言いたいことは伝わった。
大切なのは、どんな出自かではなく、当人がどんな行動ができるかだ。
工藤の目の前にいる朝鮮出身の曹長が、それをよく体現していた。
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