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第6章⑬
…そんな風に、今まで交流がなかった相手と口をきくようになったのは、悪くない変化だ。
けれども完全な満足には遠い。黒木との関係は決裂したままで、それを修復する見込みがまるでない。
そもそも修復すべきものなのか、金本には分らなかった。
今さらながら、兄の光洙 のことが恨めしかった。あれからもう何年も経ったのに、いまだに兄の存在が自分を苦しめる。光洙があんな事件を起こさなければ――――。
そこで金本は気づく。
黒木は金本の正体を知ってなお――金本に好意を持ち続けていたのか?
金本勇 であり、金蘭洙 である自分を。
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三度目のB29来襲があった翌日。朝から雲が多く、雨が降りそうな空模様だった。
金本たち搭乗員は起きぬけに、戦隊本部前へ集合するように命じられた。駆け足で言ってみると、「はなどり隊」だけでなく、別の飛行中隊に属す搭乗員たちも顔をそろえている。そのどの顔にも、とまどいがにじみ出ていた。早朝にこのような形で呼び出されるのは、今までなかったことだ。
金本たちが整列したところで、建物の中から戦隊長が現れた。
ーーあれは……?
戦隊長の後ろに従う士官の手には、なぜかわら半紙と封筒の束が握られている。一体何がはじまるのか?--水を打ったように静まり返る一同の前で、戦隊長が口を開いた。
「――諸君。昨日夜半、第十飛行師団長から全ての飛行戦隊に対して特別命令がくだった」
戦隊長の顔にはこの日の空よりも一層、陰鬱な影がまとわりついていた。
「困難を極めるこの戦局において、襲来するB29を一機でも多く撃墜するために、特別攻撃隊を編成することが決定された。各戦隊から各々四機が選出され、この名誉ある職務に従事することになる。なお、特別攻撃隊の隊員は、志願者でありかつ独身であることを原則とする。今から用紙を配布し、諸君の意志を問う。その上で、選定を行うものとする。なお、提出する時は封筒を糊づけして、提出するように……」
話がここまで来た時、金本は黒木の方をひそかにうかがった。「はなどり隊」の隊長は大きな瞳を剥き、口を真一文字に引き結び、かろうじて激発するのを抑えている。
煮える怒りを含んだ眼差しは戦隊長だけでなく、その上にいる人間に対して向けられているのは明らかだった。
……ピストへ戻ったあと、「はなどり隊」の搭乗員たちはあちこちで数人ずつ固まって、今しがた聞いた戦隊長の訓話について盛んに意見を交わした。
「というか、特別攻撃隊ってなんだ?」
「バカ。新聞やラジオで言ってたろう。フィリピンで海軍連中がやった体当たりだよ」
「米軍の空母に、零戦 をぶつけて沈めたっていうあれか?」
…………。
「見ろよ、配られた紙に『対艦』と『対空』って書いてある。なんだろな、これ?」
「『対艦』は、戦艦が対象ってことじゃないか?」
「なら、『対空』は?」
…………。
「体当たりってーー冗談じゃないぞ。俺たちは戦闘機乗りであって、二五〇キロ爆弾じゃない」
「だが、今まで敵のB29をことごとく取り逃がしている。普通に飛んでちゃ、勝てやしないのは事実だろう」
「そうだとしても、飛んでいる爆撃機を狙って体当たりするなんて、無茶苦茶すぎるだろう」
…………。
方々で交わされる会話を耳にしつつ、金本はひとり、配られた用紙にじっと見入っていた。
――対空特別攻撃隊 : 熱望 ・ 希望 ・ 希望せず――
――対艦特別攻撃隊 : 熱望 ・ 希望 ・ 希望せず――
「対艦」は、海軍が行ったような戦艦や空母を対象とした体当たりとみて間違いない。
そして、「対空」は――あの日、目にしたB29の銀色の機体が、金本のまぶたの裏によみがえる。戦隊長の訓話、それに金本たちの本来の職務を考えれば――対空特別攻撃隊の対象が、帝都に来襲するB29を対象としていることは明らかだった。
さらに明白なことがもうひとつ。
体当たりという攻撃方法は、初めからそれを行う人間の生還を度外視している。身命 を差し出す、まさに「捨て身」の攻撃ーー正攻法ではない、外道の戦法だった。
――……海軍に戦果を上げられて、陸軍の上層部は今、間違いなく焦ってる。きっと、同じような腹づもりでいるに決まっている――
黒木の言った通りになった。戦果を上げる。そのために、ついに上層部はなりふりかまっていられなくなったのだ。
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