89 / 370
第6章⑮
その日の夕刻、黒木は苦々しい顔の戦隊長に呼び出された。
「きわめて遺憾な結果だった」
「何がです?」
聞き返した黒木、を戦隊長は嫌そうに一瞥 した。黒木はどこ吹く風だ。もちろん、戦隊長が何を話題にしているか知っての上で聞いたのだ。
戦隊長は机の上にあった紙を手に取った。朝に配られた特別攻撃隊の志願の意志を問う用紙、その一枚だ。対艦、対空ともに「希望せず」に大きな丸がついている。そして氏名欄には「黒木栄也」と、小学生みたいな字(黒木は悪筆だった)で書いてあった。
「黒木大尉。貴様、搭乗員たちに特攻を希望するなと、そそのかしはしなかったか?」
「天地 神明 に誓って、そんなことはしていません」
黒木は堂々と答えた。
この一件に関する限り、黒木は部下たちに何ら意思表示はしていない。よしんば、今村たちが断りもなく黒木の封筒の中身を見たとしても、それを「そそのかした」とは言えないだろう。
「しかし、そんなことをお尋ねになるということはーー『はなどり隊』だけでなく、ほかの中隊でも『希望』や『熱望』を選んだ者は少なかったんですか?」
戦隊長は黙り込む。黒木は自分の指摘が当たったものと受け取った。
――どうやら現場の人間の頭は、まだまともみたいだな。
きっと『希望』や『熱望』を選ぶ者が少なくないだろうーー上層部のそんな甘い希望的観測が実現しなかったことに、黒木は意地の悪い喜びを味わった。
その時、戦隊長が唐突に切り出した。
「金本勇曹長は、隊内ではどんな人物だ?」
予期していなかった質問に、黒木は一瞬、目を細めた。
「……技量も経験も、申し分のない男です。先日、B29に最接近できたことでも、それは裏づけられたと思いますが――」
言いながら、黒木の脳裏にある嫌な可能性がひらめいた。
――あのバカ。まさか……!
黒木は背筋を伸ばし、口調に熱を込めた。
「隊内のほかの搭乗員たちにとっても、模範となってきた人物です。訓練をはじめ、色々な場面で、俺も助けられました。その金本がなにか?」
戦隊長は無言のまま、黒木に一枚の紙を示した。
ふたつの「熱望」に丸がつけられた用紙ーーーその末尾に、「金本勇」と記してあった。
「『はなどり隊』で、彼だけが『熱望』を選んだ。ほかはすべて君と同じ、『希望せず』だ。遺憾なことに、ほかの隊も似たようなものだったが」
「………」
「まったく、金本曹長は搭乗員の鑑 だな。それだけに、来たる本土決戦において必要な人材だ。今回の特別攻撃隊からは外れてもらう」
「……ご判断に感謝します」
本心から、黒木は言った。だが無論、戦隊長はそれを伝えるためだけに黒木を呼び出したのではなかった。
「ここに、新しい用紙がある」
戦隊長は紙の束を黒木の前に置いた。
「十二枚。各隊から最低でも一名、場合によっては二名の志願者が必要だ。……私の言いたいことは分かるな?」
「いいえ」
「……黒木。私だって苦しい立場にあるんだ」
戦隊長の顔に疲れが浮かんでいることに、黒木は気づいた。かといって、さほど同情は湧いてこない。
体当たりさせられる搭乗員が抱く苦悩に比べれば、戦隊長の心労など一時的なものだ。
「部下たちに、よくよく言い聞かせろ。必ず志願者を出せ。いいな」
黒木は口を引き結び、にらむように戦隊長を見る。数秒、無言を貫く。そのまま何も言わずに用紙を握りつぶすようにつかむと、敬礼はおろか挨拶もせずに、部屋の扉を乱暴に叩きつけて出て行った。
戦隊長は彼の非礼をとがめなかった。
この程度のことで黒木を承諾させられたのなら、ましな部類だと彼は思った。
ともだちにシェアしよう!