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第7章① 一九三八年七月
「――くたばれ、金本!」
叫びながら殴りかかってきた同期生の拳を、金本勇 ――金蘭洙 は難なくかわした。続く二人目も。三人目はそうもいかなかった。蘭洙の死角から、それもホウキの柄で襲いかかってきたのだ。背中を思いきり叩かれて、さすがに息がつまる。けれども、蘭洙は即座に反撃に転じた。再度、振り下ろされたホウキの柄をほとんど無雑作につかむと、そのまま力まかせに相手の手からもぎとった。
手に入れた即席の得物で、蘭沫はいちばん近くにいた同期生の足を払った。転倒する相手に目もくれず、半回転して別の一人の肩を突く。最後に、おかえしとばかりに、ホウキを持ち出したやつの尻を音高くひっぱたいてやった。悲鳴。床にはいつくばる相手のぶざまな姿を見下ろし、蘭沫は少し溜飲を下げた。
掃除をしていた教室の戸が開いて、顔を真っ赤にした教育班長が現れたのは、その直後のことだった。
「……俺は悪くありません」
昼休み。むすっとした顔で、蘭沫は教育班長の上原 中尉に言った。上原から容赦なく浴びせられたゲンコツのせいで、頭がまだ痛い。きっと後でコブになる。
「あいつら、俺が掃除し終えたところに、わざとバケツの水をぶちまけたんです」
「向こうは事故だったと言っている」
「謝れって言っても、謝らなかった」
「…謝る前に、お前が殴りかかったと、向こうは言っている」
「ひとりの肩をつかんで押しただけです」
説明する内に、蘭沫の中で怒りが再燃してきた。
「昨日、体育の授業中、剣術で俺に負けたから。その腹いせですよ。大体――」
上原はため息をついて、蘭沫の発言をさえぎった。
「分かった。もういい。午後の訓練の準備に行け」
蘭洙はあからさまに不服そうな顔だ。だが、それ以上は何も言わず、乱暴な足取りで上原の前から退出した。
自分の受け持つ学生の姿が見えなくなったところで、上原はもう一度、大きなため息をついた。そこに、別の教育班の班長が、湯飲み片手にふらりと現れた。
「また、例の金本学生か?」
「ああ……まったく。熊谷飛行学校 を卒業するまで、あとひと月もないんだ。最後くらい、少しはおとなしくしていればいいものを」
「ははは。元気でいいじゃないか」
「他人事 だと思って。いい気なもんだ」
「けれど、優秀なやつだろう。実際のところ」
茶をすすりながら、上原の同僚は言う。
「普通学、軍事学、航空工学――座学は学年で常に十位以内。体育では、剣術で二十四人抜き達成。ひとりで、班内のほかの学生全員を叩きのめしたんだろうーーいやはや。技量もだけど、化け物みたいな体力だな。それに何より、航空機を操縦する才に恵まれている」
「…金本には、その全部をぶち壊しにする欠点がある」
「うん?」
「さっきみたいに。問題を起こしても、自分の非を絶対に認めない。おかげで同期生全員に嫌われている。うちの班だけでなく、ほかの班の学生にもだ」
「それは…まあ、無理もないな。難関を突破して選ばれた連中だ。自負心だって人一倍ある。でも仲のいい奴がひとり二人くらいはいるだろう?」
「見た限りいない」
「そいつは…ちょっと深刻かもな」
同僚の言葉に、上原はまたため息をつく。
「あれでもう少し、人を立てるということを学べば、状況も変わるんだろうが」
金本勇――金蘭洙にいちばん縁がないのが、「謙譲の精神」だ。入学してから一年半、上原は蘭洙を間近で見てきた。
その上で言えるのは――あれほど努力家で、負けず嫌いな人間は、いまだかつて見たことがないということだ。剣術がいい例だ。入学当初は規則さえ知らず、竹刀を握ったのも初めてだったようだが、今では学年で一番の負け知らずだ。
――……本当に惜しい。
上原はかけねなく、そう思うのだった。
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