92 / 330

第7章②

 上原の懸念の対象はその頃、小石を蹴りながら飛行場への道をたどっていた。つい数日前から鳴きだした蝉の声がわずらわしい。暑い。なにより、腹の虫がおさまらない。蘭洙は落ちていた小石を拾うと、それを木の幹めがけて投げつけた。  もちろん、そんなことで蝉は鳴きやみはしなかった。 「……うるせえよ(シックロォ)」  蘭洙は歯ぎしりする。同期生と同じだ。彼が何をしても、「生意気だ」という声がやむことはない。また石を拾う。  くやしい気持ちが引き金になったのか。急に、記憶にある兄の顔が木の幹に重なった。 ――お前の選択は、間違っている。  蘭洙は叫んだ。 「俺は間違っていない。何一つ!!」  怒りと反発を込めて力いっぱい放った小石は、放物線を描いてどことも知らぬところへ落ちていった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  二年前。一九三六年、大阪―― 「蘭洙! 降りろ! 降りて来いって!!」  工場の軒先に、たくさんの男たちが集まっている。女の顔も見える。その全員が朝鮮から出稼ぎにきた来た労働者だ。彼らの中に混じった兄の光洙(グァンス)の声を、蘭洙は耳ざとく聞き分けた。  今、蘭洙はゴム工場の建物から伸びる煙突を登っている最中だった。兄の声に応えるべく、煙突の外側にとりつけられたはしごに片手と片足をかけたまま、器用に身体を半回転させる。  それを見た光洙が、まるで若い娘のような金切り声をあげた。 「わっっ…やめろ!! 両手でつかめ! 落ちる!!」 「兄さん(ヒョン)、大丈夫だって」  空いた手を口元に当て、のんびりした口調で蘭洙は答えた。  実際、今いる高さは十メートルくらい。全然、怖くない。半分、気絶しかけている兄に手を振り、蘭洙ははしご登りを再開した。木登りに比べれば、まったく楽なものだ。  最上部にたどり着くまで、ものの一分とかからなかった。 「よっと…」  煙突の排煙口に、蘭洙は腰を下ろした。そこからの眺めは中々のものだった。狭い密集した長屋も、ゴミがつまった排水路も、あちこちの工場から出るゴムや化学薬品のにおいも、ここからなら遠い。地上の景色を十分に堪能した後、蘭洙は空をふりあおいだ。  日本の四月には珍しい。蒼穹(そうきゅう)、という言葉がぴったりな澄んだ色がそこに広がっていた。  小さい頃から、蘭洙は空を見上げるのが好きだった。黄砂の混じって(かす)む春の空。入道雲が高くそびえたつ夏の空。遠く飛ぶ鴨の羽模様まで見分けられる澄明な秋の空。しんしんと雪を落とす灰色の冬の空ーー。  見ているだけで、自分を取り巻く様々な煩雑なあれこれを忘れられる。 ーーあそこに身を置くことができれば、きっともっといい気分になれるに違いない。  蘭洙にとって、いつしか天空は見上げるだけの存在ではなく、行くべき目標になっていた。 「…おっと。肝心の目的を忘れるところだった」  蘭洙はたすきがけにして背中にくくりつけてきた風呂敷をほどいた。  取り出した麻布をひざの上にのせる。それから布の両端にあらかじめつけておいた南京錠を、慎重な手つきで煙突のはしごに取り付けた。 「よし」  南京錠がはしごにきちんと固定されたことを確かめた上で、蘭洙はひざの上の布を一気に眼下めがけて放った。  ゴム工場の煙突に、まるで百貨店の広告のようなのぼりが翻った。 「――臨時工(パート)本工(正規工)に! 奨励金(ボーナス)払え!」  同胞たちがそれを見て、やんやの歓声を上げる。工場に対するストライキとしても、これほど派手なものを見る機会はそうそうないだろう。  蘭洙ははだしの足をぶらつかせ、会心の笑みを浮かべて彼らに手を振った。

ともだちにシェアしよう!