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第7章③

 騒ぎを聞きつけ、叔父の哲基(チョルギ)がゴム工場にかけつけたのが十分後。そこからきっちり三十分後、蘭洙は頭頂から湯気が立ちのぼるほど怒った叔父の手により、家の階段下にある物置に放りこまれた。二階に閉じ込められなかったのは、そこがたまたま済州島から来た下宿人で埋まっていたからだ。蘭洙の方に、二階の窓から脱走した前科があるという原因もあるが。 「バカ甥め! 俺がいいと言うまでそこで反省していろ!」  哲基は物置の戸につっかえ棒をした上、ごていねいに自分の工場でつくっている特大の南京錠までかけていった。叔父が出ていくと、家の中が急に静かになった。 「あーあ。やっちまった」  蘭洙は物置の中でひとりごちた。別に怖くはない。暗闇が恐ろしかったのは十歳くらいまでの話だ。もっとも数え十七歳になってなお、お仕置きで物置に閉じ込められるというのも、我ながらどうかと思うが。 「さすがに窮屈だな。これじゃあ、眠れやしないよ。叔父さんも、どうせなら別のところに放りこんでくれたらよかったのに……」 「――蘭洙。蘭洙、起きてるか?」  物置の外から、押し殺した声がした。兄の声だ。蘭洙は目をあけた。いつの間にか眠ってしまったようだ。 「起きた。今、何時?」 「十二時…夜中の」 「うお。もう、そんな時間なの? どうりで腹がすいたわけだ」 「待ってろ。今、開ける」   鍵を回すかすかな音がして、戸が開く。廊下は真っ暗だったが、そこに光洙が立っているのが分かった。蘭洙は眠い目をこすった。 「出てもいい? ずっと閉じ込められてて、いいかげん腰が痛くなった」 「いいけど、静かにな」  ようやく窮屈な場所から出られ、蘭洙は「やれやれ」と手足を伸ばした。床に座ると、光洙が水の入ったコップと、トッ(餡のない蒸しパン)を盛った皿をわたしてくれた。 「何これ?」 「ぼくが夜学校で教えている学生にもらったんだ。もち米じゃなくて、トウモロコシの粉でつくったって」  かじってみる。生地に味はほとんどなかったが、練りこんだサツマイモのかけらのおかげでほんのり甘い味がした。 「隠しておいた夕飯の残りもあるけど、いるか?」 「いる」 「分かった、持ってくる」    蘭洙がぱくぱく食べ物をたいらげる様子を、光洙はほっとした顔で眺めた。物心ついて以来、何十回と繰り返された光景である。いたずらをしたり、騒ぎを起こすたびに、蘭洙は家の庭にある使われなくなった穴蔵(キムチを保存しておくやつだ)に閉じ込められた。そんな弟に、いつも人目を盗んで食べ物を運んでくるのが、光洙の役目だった。 「……お前、日本に来てから本当に大きくなったよな」  光洙がしみじみ言った。まるで母親みたいな物言いだ。実際のところ、二人で船に乗って大阪の叔父のもとへ来て以来、兄は蘭洙にとって半分、母親みたいな存在だった。 「そりゃ三年も経てば、背も伸びて当然だ。兄さんだって、そうだろ」 「まあね。でも、ぼくはお前ほど変わってないよ」  それは事実だ。手足が伸びるのに比例して、身体つきががっしりしてきた蘭洙に比べ、光洙は今も細身だ。柔和な面差しと相まって、どこか女性的ですらある。  そして見かけはまったく対照的となった兄弟は、昔と変わらず―ーいや、それ以上に強い絆で結ばれていた。

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