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第7章④

 自分で思った以上に、腹がすいていたのだろう。兄が持って来てくれた食料を食べつくし、ようやく人心地ついた気分になった。 「おなかいっぱいになったか?」 「うん。いやあ、食った、食った」 「ならよかった。なあ、蘭洙ーー」 「腹いっぱいになったら、眠くなってきた。兄さんも、もう寝た方がいいんじゃない?」 「蘭洙」 「……何?」 「昼間のことだ。工場の煙突にのぼるなんて、正気の沙汰じゃない。労働者の権利を擁護するために行動するのは立派なことだけど――」 「兄さん。難しい話は俺、苦手」 「まじめな話だ」 「…『警察に目をつけられるな』だろ。分かってる。叔父さんにさんざん注意されたってば」 「ぼくが言いたいのは、そのことじゃない」  光洙は弟をさえぎった。 「危ないことはするな。今回ばかりは、心臓が止まるかと思ったぞ」 「……悪かったよ。心配かけて、ごめん」  蘭洙は素直に謝った。他人にどう思われようが、気にしない。けれども、光洙だけは別だ。兄に負担をかけるのは本意ではなかった。ただ――。 「もう、あんな真似はしないでくれ」  そう懇願された時、蘭洙は返事をかえすことができなかった。  もう危険なことはしない――とは誓えない。うそになるからだ。特に、これからしようとしていることを思えば。 「…なあ、兄さん。夜学校の先生、これからも続ける気なの?」 「うん。もちろん」 「けど、朝から晩まで叔父さんのところで働いて、その上、夜は先生なんて。いい加減、身体がもたなくなるよ。しかも、ただ同然の月謝でだろ」 「お金の問題じゃない」  光洙は力説した。 「いいか、蘭洙。海をわたって日本に働きに来ている同胞の多くは、自分たちの歴史も知らなければ、今、世の中で何が起こっているかも知らない。それというのも、彼らの多くは貧しくて、学校に通うことができなかったからだ。金家(うち)はちょっとだけ土地を持っていてまだ余裕があったから兄弟全員、学校に通うことができたけど、それは幸運な方なんだぞ」 「分かってるって」 「朝鮮の人間の多くは漢文や日本語はおろか、訓民正音(ハングル)さえ満足に読めない。でも、もし字を学んで新聞なんかを読めるようになれば、自分でものを考える機会だって増えるし、もっと世界に目を向けることができるんだ……」  光洙の熱弁を蘭洙は途中から聞き流した。  今まで、何百回も聞かされていいかげん耳にたこができている。 「今のままで、いいはずがない」  そう、兄は言う。その点は蘭洙だって認める。  故郷の朝鮮は昔、独立した国だった。だが近代化の波に乗り遅れ、ハゲワシよりも貪欲な列強諸国に狙われ、ついに海をへだてた隣国であった日本に併合されてしまった。蘭洙や光洙が生まれる前の話だ。  植民地となった故郷。貧しい暮らし。今でも、小学校に通うことのできる子どもは、二人に一人もいない。  街へ出て日本人と同じ仕事をしていても、朝鮮人の賃金はずっと安いままだ。故郷でも、ここ大阪でも。  何より、日本人は朝鮮の人間をはなから一等下に見ている。  そんな現状が変わればいいと、蘭洙だって思っている。  でも兄と違って――蘭洙はそれがまったく容易なことではないと、うすうす気づいていた。 ――たとえ文字が読めるようになっても。みんながみんな、兄さんみたいにものを深く考えるとは限らない。人のために、尽くすわけじゃない。  蘭洙はそう思う。だけど、それを決して口にはしない。余計なことを言って理想に燃える兄を悲しませ、眼の輝きを失わせたくはなかった。

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