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第7章⑤

 ひとしきり話し終えると、光洙は空になった皿を片付けはじめた。 「なあ、蘭洙。お前も夜学校で教える気はないか?」 「へ、俺が? よしてくれよ。俺みたいなガキの言うこと、誰も聞きやしないよ」 「それを言えば、ぼくだってまだ二十にもなってない。お前と二つしか違わないんだから。大丈夫だよ。お前はちゃんと、教えられるだけの学力は持っている」  目が慣れた暗闇の中、蘭洙は兄の顔をじっと見つめた。本気だ。そして、蘭洙がうなずくのを期待している。 「……悪いけど」  本当に、そう思いながら蘭洙は言った。 「夜の時間は、自分のために使いたいんだ。本を読んだりとか。もう学校には行っていないけど、いろいろと勉強はしたいから」 「……そうか。それならかまわない。自分を磨くのは、いいことだ」 「うん。そろそろ俺、本当に寝るよ。叔父さんに気づかれるとまずいから、鍵忘れないでくれよ」 「分かった。明日の朝には、きっと出られるよ。そうならなかったら、出してくれるよう叔父さんに頼むから。上掛け、いるか?」  光洙は二階から持ってきた薄い布団をかかげた。どこまでも用意のいい兄だった。 「うん。ありがとう、兄さん」 「おやすみ、蘭洙」 「…おやすみ」  光洙が物置に鍵をかけて出ていく。そのあと、階段を上って兄弟二人で使っている二階の三畳間に戻る足音がした。暗闇の中、再び一人になった蘭洙は、兄のくれた上掛けをかぶった。 ーー明日からは、少しおとなしくしておこう。  そう決意する。兄をあまり心配させたくない。  それに――これからやろうとしていることを考えれば、叔父の哲基の機嫌をこれ以上、悪くすることは避けたいところだった。  次の日の朝、哲基はようやく蘭洙をせまい物置から解放してくれた。  蘭洙は叔母がつくってくれた朝食を腹につめこむと、すぐに光洙と一緒に家のはす向かいに向かった。そこに、叔父が経営する南京錠をつくる工場があった。十人ほどの職工は、すべて朝鮮人である。光洙も錠前づくりを学んでここで職工として働いているが、蘭洙はまだ雑用係だ。でき上った製品を箱詰めしたり、汚れのひどいところを掃除したりするのが主な仕事だ。ただ、日本語について会話も読み書きも不自由がないので、外部とのやり取りがある時は重宝されていた。  光洙に言ったことはうそではない。日本に来て以来、蘭洙は叔父の工場で働くかたわら独学で勉強を続けていた。今では日本語の新聞だって読めるし、もっと専門的な――自分の興味のある内容に限定されるが――難しい本も理解できる。 ーーもう、三年か。  蘭洙と光洙が叔父のもとへ来て、けっこうな月日が経った。当初、叔父のところへ来るのは光洙ひとりの予定だった。しかし、蘭洙はある目的のために、どうしても日本へ来たかった。そこで父親に頼み込んで、日本に行かせてくれるよう懇願した。  最初、父親は首をたてに振らなかった。けれども、やがて故郷に残したところで、どのみち三男坊を持て余すことに気づいた。蘭洙を上の学校に行かせる気はなく、また家にはすでに長男の仁洙(インス)のために迎えた嫁がいて、人手は一応足りていた。外で働かせるとしても、十三歳の少年に稼げる金はしれている。  それならいっそ、日本に行かせた方が将来が開けるーー父親はそう結論し、息子二人を彼の弟がいる大阪へ送り出した。もっとも、兄の子を迎え入れた哲基の方は、当初予定していたより二倍の食費が家計にかかることになり、かなり苦々しい思いをしたが。  昼食休憩をはさんで働き続け、夕方に家にもどる。夕食を食べて、光洙と寝起きする三畳間に戻ると、ようやく自由に使える時間だ。  光洙が夜学校に出かけて行ったあと、蘭洙は積み上げた本の間にはさんで隠していた封筒を取り出した。畳の上にあぐらをかく。  自分の将来が、この手にある封筒の中身にかかっていた。 「――さあて。いつ叔父さんに切り出すべきか」  なるべく機嫌がいい時を狙うしかない。昨日、激怒させたことを考えると、あと数日はおとなしくしておいた方が無難だろう。かといって、待ちすぎていたら提出のしめきりを過ぎてしまう。のんびり構えてもいられなかった。  蘭洙は軽くため息をつき、ごろりと寝転がった。天井が近い。壁も。狭い三畳の空間には、この三年間の思い出がつまっている。だが身体の成長とともに、日に日に窮屈さを感じるようになっていた。  そろそろ、もう少し広い場所に出たかった。  蘭洙が寝返りを打つと、ちょうど枕元の壁に兄が貼った半紙が目に入った。 「丹心歌 鄭夢周    此身死了死了 一百番更死了……」 「……この身が(イモミィ)死んで、(チュッゴ)また死んで(チュッゴ)一百回(イベェックバン)死んだとしても(グッツォチュッゴ)ーーー」  時調という朝鮮の古い詩の中で、兄が一番好きなものだ。漢文で書かれたそれは、寝そべるたびに目にはいるので、いい加減そらんじてしまった。 ――兄さん。味方にはなってくれないだろうな。  そんなことを考えている内に、蘭洙はうつらうつらしだした。

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