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第7章⑥

 ……ふすまを開ける音。ひかえめな忍び足。気配で兄が戻ってきたのだと、蘭洙には分かった。いつもなら、光洙が蘭洙にひと声かけて、布団を敷きにかかる。けれども今日にかぎって、なかなか兄の声が降ってこなかった。  変だな、と思いながら、蘭洙は眠い目をこすって起き上がった。  光洙がすぐそこで、身じろぎもせずに座っていた。  その手の内に、蘭洙が隠しておいたはずの封筒があった。 「あっ……!」  思わず上げた声に光洙が振り返る。  兄の顔は蘭洙がびっくりするくらい、険しかった。 「蘭洙。これは何だ?」 「何って……」  兄の表情。詰問するような語調。蘭洙は悟る。  これから自分がやろうとしていることに、光洙は絶対に味方なぞしてくれやしない。  蘭洙は蚊の鳴くような声で言った。 「……飛行学校の願書だよ。陸軍の」 「なんで、そんなものがここにあるんだ。お前、まさか受験するつもりなのか」 「…そうだけど」 「正気か? バカなこと考えるんじゃない! こんなもの――」  光洙の手に力がこもる。破られる。そう思った蘭洙は、とっさに兄の手から封筒をもぎ取った。普段なら絶対にしないことだ。  光洙の顔が険しさを増した。 「わたせ」 「嫌だ」 「蘭洙!」 「嫌だ! 兄さんの言葉でも、それは聞けない」 「いいから、わたせって!」  いつもおとなしい光洙が手を突き出す。蘭洙は奪われまいと身体を丸める。兄弟二人が大声を言い争い、畳を踏む音は、薄い床を通してそのまま階下に伝わった。  たちまち階段をどすどす踏み鳴らす音がして、叔父の哲基が怒鳴り込んできた。 「うるさい甥どもめ! 一体なにを騒いでいる!」  弟の背中にのしかかっていた光洙が、真っ赤な顔を叔父に向ける。 「叔父さん、蘭洙を叱ってくれ!」 「俺は叱られることなんてしていない!」  蘭洙が、こちらも髪を乱して叫んだ。  二人に対して哲基が言ったのは、「そこに(ひざまず)け!」だった。この家の中で、叔父の言葉は絶対だ。光洙と蘭洙は口を閉ざし、言われた通りにした。  哲基は腕を組んで、正座した二人の甥を見下ろした。 「説明しろ、光洙」 「…蘭洙が、陸軍の飛行学校の願書を隠してたんだ。受験するつもりだって。ありえないよ。朝鮮人が日本の軍人になるなんて」 「本当か?」  哲基の台詞は、もう一人の甥に向けられたものだった。蘭洙は唇をかんだ。 「どうなんだ?」 「……兄さんの言う通りです」  哲基は蘭洙の手に封筒が握られていることに気づくと、それを容赦なく取り上げた。  蘭洙はなすがまま、抵抗できなかった。 「……今度、騒いだら。二人そろって家から追い出すからな」  哲基は甥二人をねめつける。それから、また階段をどすどすと下りて行った。  電灯がついたままなのに、蘭洙は目の前が真っ暗になった。  広い世界へつながる扉を前にして檻に連れ戻された犬よりも、みじめな気分だった。

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