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第7章⑦

「…蘭洙。まだ怒ってるのか?」  背中合わせの空間で、光洙が聞いてくる。蘭洙は眠ったふりをして無視した。  飛行機で空を飛ぶ――その夢をかなえるスタートに立つ前に、道を遮断されてしまった。怒って当然だし、その現実をまだ受け入れられずにいる。  それなのに、兄の声は勝手に耳に入ってくる。 「お前のためにやったんだ。分かってくれ」  穏やかな語調に、蘭洙は目を固くつむる。分かりたくなんてなかった。たとえ気持ちの半分が、すでに兄を許す方に傾きかけているとしても。  自分が叔父の工場で、これからずっと南京錠をつくって人生を終えるのかと思うと、気が滅入(めい)ってしかたがなかった。 「ーー蘭洙。ちょっと来い」  翌日。午前の仕事が終わる頃に、蘭洙は哲基に呼び出された。蘭洙だけではない。叔父が事務室として使っている一角に行ってみると、光洙もそこにいた。  哲基の喫うタバコの煙が充満している。注文書や支払いの明細書に混じって昨日、叔父が蘭洙の手から奪っていった封筒が机にのっているのを、蘭洙は目ざとく見つけた。  哲基が喫いかけのタバコを灰皿に立てかける。それから、状況がまだ飲み込めていない蘭洙に向かって、机の封筒を突き出した。 「一度だけ機会をくれてやる。受けたきゃ、受けてこい。そのかわり落ちたら、きっぱりあきらめて身を入れて働け。いいな」  叔父の台詞が耳から入って頭に伝わり、脳が理解するまで二秒ほど時間差があった。  信じられない。だが、本当だ。蘭洙は喜んで飛び上がった。 「ありがとう、叔父さん!!」 「話はそれだけだ。昼飯、食ってこい」 「うん!」  そのまま宙に浮かびそうな足取りで、蘭洙は駆けて行った。  有頂天になりすぎて、すぐそばにいた光洙の顔色が変わったことに、気づいていなかった。 「…どういうつもりだよ、叔父さん」  光洙の声は抑制されていたが、動揺のすべてを隠しきれてはいなかった。 「なんで蘭洙に受験を許したんだ?」 「別にかまわないだろう」  哲基は灰皿に立てかけてあったタバコを再びくわえた。 「挑戦してダメだったら、蘭洙もいい加減、目が覚める。それで、仕事に少しでも身が入ればめっけもんだ。そうでもしないと、この一件をあいつは一生、根に持つぞ」 「……」 「なに。聞いた話じゃ、この飛行学校というやつは、何十倍っていう倍率だそうだ。日本人ですら滅多に受からないらしいぞ。あいつは、まず無理だろう」 「万一、受かったら?」  光洙はなお食い下がる。 「蘭洙は同じ年ごろの日本人と比べても、体格がいい。腕力もある。日本語もよくできる。叔父さんはいつも仕事を真面目にしないからと蘭洙を怒っているけど、あいつは決してバカじゃないんだ」 「…『親の欲目』ならぬ『兄貴の欲目』だな、そいつは。ふん。受かったら、その時はあいつのことを少しは見直してやるよ。俺が思っていたより、すごい奴だったって」 「叔父さんは平気なの? 身内を日本の軍隊に入れるなんて」 「平気だ。むしろ、名誉なことじゃないか」 「なんてこと言うんだよ! 日本は、ぼくらから国を盗んだやつらじゃないか。この上、弟まで――」 「光洙!」  叔父の怒声に光洙はびくりと口を閉ざした。  甥に向けた哲基の目は、ひどく冷ややかで、不信感に満ちていた。 「……蘭洙のやつには、今までさんざん手を焼かされてきたが。最近、俺はどちらかというと、お前の方があいつよりでかい厄介ごとを、うちに持って来るんじゃないかと思いはじめている」 「……」 「めったなことを言うんじゃない。警察や特高(特高警察のこと)の目は、いたるところにある。あいつらは何か嗅ぎつけたら、即ひっぱっていくぞ。相手が朝鮮人なら、もう喜んでだ」  哲基はため息をつき、タバコを灰皿に押しつけた。ポンっと光洙の肩をたたく。 「俺たちは、この土地でうまくやっていかなきゃならないんだ。不満があっても、それを表に出すのは時と場所を選べ。…耳の早い服屋のおやじに聞いたが、お前の行っている夜学校も目をつけられ始めている。いい加減、適当なところで手を引け。いいな」 「……」 「返事は?」 「……はい」  光洙はしぼりだすような声で、かろうじて答えた。

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