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第7章⑧
――それから五ヶ月後。
「――……熊谷陸軍飛行学校操縦生徒採用予定者トス。昭和十二年一月××日、第二次身体検査ノ為、所沢陸軍飛行学校二出頭スベシ……――」
蘭洙が上げた声は、隣三軒にまで響きわたった。通知を手に、喜びにまかせ、何度も飛び跳ねる。二階の床板を踏み抜かんばかりの勢いに、叔父の哲基が騒ぎを聞きつけて、たちまち三畳間に怒鳴り込んできた。
「蘭洙!! お前、いったい何度言ったら……」
「受かったんだよ、叔父さん!」
「は?」
「合格したんだ。飛行学校の一次試験!」
「はあ!? 本当か」
哲基は蘭洙の手にある通知をのぞきこんだ。日本語で書かれているが、読み間違えるはずもない。甥が言っていることは本当だった。
「たいした奴だな! おい、蘭洙が合格したってよ!!」
哲基は廊下に首を出し、家の中にいる妻や下宿人たちに喜ばしい結果を大声で伝えた。
金哲基 の甥が、飛行学校に行くらしい――そのニュースは瞬く間に近隣に知れわたり、しばらくの間、蘭洙は街でちょっとした有名人になった。道行く同胞に飛行学校の試験のことを尋ねられるたびに、蘭洙は律儀に返した。
「まだ二次の身体検査が残っているから、本決まりではないんだ」
「なあに、お前の体格なら問題ないだろう」
皆がそう言ってくれるので、蘭洙も身体検査のことはあまり心配していなかった。大丈夫。絶対に合格する。心がふわふわする日々の中、それでもただひとつだけ影を落としていることがあった。
兄、光洙の執拗 な反対だった。
「――まだ間に合う。考え直して行くのはやめろ、蘭洙」
年の瀬もせまった十二月。通知が来てから何度となく繰り返された説得を、光洙はまた口にした。蘭洙は黙って読んでいた本から顔を上げた。もし、光洙以外の人間だったら、いいかげん無視したか、怒り出しているところだ。
兄は今日も夜学校に教えに行くようで、すでに外出用の服に着替えていた。
「…俺は行くよ。絶対に」
光洙に向かって、蘭洙は言った。
「飛行機乗りになるのが俺の夢なんだ。それがかなう機会をみすみす手放せないよ」
「だからって。日本の陸軍の兵士になるなんて、どうかしている」
その言葉に蘭洙はうなだれる。この数ヶ月で、だんだんと理解してきたことがあった。
最初、光洙は蘭洙の身を案じて、飛行学校に行くことを反対しているのだと思っていた。
けれども、それが一番の理由ではない。
光洙が一番いやなのは、弟が日本の軍人になることなのだ。
その気持ちは分かる。兄はなにより、日本が朝鮮人から国を奪ったことが許せないからだ。
蘭洙は反論しなかった。なかば諦めの気持ちで、兄が出かけるのを待つ。だが、
「お前は子どもだ。何にも、分かっていない」
そんな風に言われると、さすがに黙っていられなくなった。
「――子どもなのは、兄さんの方だろう」
蘭洙は光洙を見上げて言った。
「兄さんは口を開けば、朝鮮は独立した国だった、日本がそれを併合したのは間違いだったって言う。今のままでいいはずがないって……じゃあ、教えてくれよ。いったい俺たちはどうしたらいいんだ? 何をしたら、その現実が変わるんだ?」
「それは……」
「その答えを持っていないのなら。兄さんは不満ばかり言うただの夢想家だ」
俺は、と蘭洙は続ける。
「俺は飛行機乗りになりたい。だけど航空兵を目指すのは、ただ自分の夢のためだけじゃない。俺は証明したいんだよ。いつだって俺たちを見下す日本人と、国を奪われて自信と誇りを失くしちまった同胞たちに。朝鮮人だって、日本人と同じくらいに……いや、それよりすごいことができるってことを、日本人と同じ土俵に立って証明したいんだ。だから、兄さん――」
頼むから、俺のやりたいことを邪魔しないでくれ。
蘭洙はそう言うつもりだった。けれども、その言葉は形になる前に、のどの奥で消えた。
光洙の目には絶望に近い光が宿っていた。
きつくかんでいる唇が動いた時、それがわなないていることに蘭洙は気づいた。
「――お前は間違っている」
絞り出すような声で言い捨てると、光洙はそのまま弟の方を見ずに部屋から出て行った。
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