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第7章⑨

 いつもなら、光洙はどんなに遅くても十時前には帰宅する。  三畳間で蘭洙は布団を敷いて、兄を待っていた。夜学校に行っている間に、少しは頭が冷えてくれるかもしれないと期待しながら。自分も、さっきは少し熱くなりすぎた。  光洙とはもう少し、冷静に話し合いたい。少なくとも、拒絶されたままでいたくなかった。  そんなことを考えていた時だ。突然、外で人が駆けてくる音がした。と、思う間もなく、足音は蘭洙たちが暮らす家の前で止まり、それから激しく戸を叩く音が続いた。  何事かと、蘭洙は窓から顔をのぞかせる。目を向けた先に、年若い娘が戸の前に立っていた。ひどく慌てた様子だ。窓を開ける音に気づいた彼女は、蘭洙に向かって大声で叫んだ。 「ちょっと、大変よ! 夜学校に突然、警察がやって来て。光洙先生を連れて行ってしまったの!!」    光洙は次の日になっても戻ってこなかった。蘭洙は一番近くの警察署に行って兄のことを尋ねたが、邪険に追い払われただけに終わった。  光洙の行方は(よう)として知れなかった。  事情がわずかに判明したのは、その日の夜のことである。叔父の哲基のところにやって来た顔なじみの朝鮮服屋の主人が、事のてんまつを話してくれた。 「甥御(おいご)さんを連れて行ったのはただの警察じゃない。特高警察だ」  それを聞いた哲基は耳を疑った。  特高警察は、日本の警察組織下の一部門である。社会主義者、共産主義者、無政府主義者、さらに日本の「国体(根本となる国家体制)」を脅かす思想を持つ者を取り締まることを職務としている、いわば秘密警察だった。 「どうして光洙のやつが、特高に…」 「聞いた話では、朝鮮人向けの冊子を作った若い連中がいて、そいつらが根こそぎやられたそうだ。その冊子の内容が……日本の朝鮮統治を批判して、不穏分子を煽るという理由で」 「……うちの甥は、それに関わっていたのか?」 「ああ。原稿を書いた連中から、印刷用の紙やインクを調達したのまで、みんな捕まった。ことがことだ。いつ釈放されるかまったく分からないし、覚悟をしておいた方がいいと思う」  服屋の主人が辞去したあと、哲基の背後でがたんという物音がした。振り返ると、そこにもう一人の甥が立っていた。 「叔父さん……」  蘭洙の声は震えていた。 「今の話は本当? 覚悟って、何…?」 「…蘭洙」 「兄さんは殺されるの? だとしたら助けないと――」 「どうにもならないんだ」  ぶっきらぼうに哲基は言い放つ。ため息まじりのその声には、諦めがにじんでいた。 「俺たちにできることは何もない。それどころか、この家にまた特高がやって来るかもしれん。…蘭洙、お前はまだガキだが、何といっても光洙の弟だ。それが理由で、引っ張られるやもしれん」  その言葉に蘭洙は茫然となった。自分まで捕まるなんて、今の今まで想像もつかなかった。  哲基は蘭洙の肩を両手でつかみ、目を据えて言った。 「ーーいいか。そうなったら、とにかくおとなしくしていろ。相手を怒らせる言動は絶対に慎め。いいな」  叔父の言葉に、蘭洙はただうなずく以外になかった。

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