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第7章⑩

 不幸中の幸いというべきだろう。哲基の悲観的な見立ては外れた。  それから二日後。光洙は釈放されて戻ってきた。  近所の人間から報せを聞いた蘭洙は、取るものもとりあえずに、兄を探しに行った。  光洙は家にたどり着く前に路上で力尽き、そのまま放置されていた。特高警察に目をつけられることを恐れてだろう。まるで路傍の石か何かのように無視され、蘭洙が来るまで近づく者さえいなかった。 「兄さん……ああ」  蘭洙は自分の目が信じられなかった。  三日の間で、光洙は別人のような姿になっていた。何度も殴られた顔は青黒く腫れ上がり、身体のあちこちに同じくらい痛ましい色をしたあざができていた。食べ物はおろか、水もろくに与えられていなかったようだ。家に帰った後、蘭洙が吸い口の水を与えると、光洙はもうろうとした状態で、何度も何度もそれを口にした。  その直後から、光洙は高熱を発した。  三畳間の布団に横たわる兄を、蘭洙はほとんどつきっきりで看病した。叔父の哲基も、無理に工場に出てこいとは言わなかった。  光洙の熱は中々、下がらなかった。おまけに眠ったかと思うと、すぐにうなされた。  夢の中で、何かから逃れようとしているらしい。叫び、悲鳴を上げ、泣きわめくたびに、蘭洙は兄を起こして、幼児をあやすようになだめなければならなかった。    蘭洙の心労はそれだけにとどまらなかった。  ある晩、光洙が起きた時のために粥をつくっておこうと、階下に降りかけた時だ。  一階から言い争う叔父と叔母の声が聞こえてきた。 「…言い訳は、もうたくさんよ!」  叔母が叫んだ。 「いいかげんお義兄(にい)さんに手紙を書いて、伝えてちょうだい。光洙も蘭洙も、もうこの家には置いておけない。引き取ってくださいって」 「まあ、落ち着け。そんなことをしたら、俺は兄貴から縁を切られちまう」 「望むところじゃない。特高に目をつけられるような身内とは、縁を切った方が後々のためよ」 「おい! 口が過ぎるぞ」 「なにさ。光洙と蘭洙が来た時、あんただっていい顔しなかったじゃない。それが今じゃ、すっかり父親面が板についちゃって。自分に子どもがいないもんだから、情がうつったんでしょう。でも、いい? あなたにとっちゃ、かわいい甥かもしれないけどね。このまま光洙を、それに弟の蘭洙を家に置き続ける気なら、あたしはいずれ出ていきますかね!………」  蘭洙はそっとふすまを閉めた。耳をふさぐ。そうやって、叔父と叔母の口論がやむのをじっと身を縮めて待っていた。

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