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第7章⑪

 そうこうしている内に、一月を迎えた。  この頃になると光洙の熱も下がり、身体の傷も癒えてきた。だが、一日の大半を家の中の、それも三畳間で過ごす生活は変わらなかった。  そして、人柄の方は完全に変わってしまった。一日中、ぼんやりしていて、気づくとぶつぶつと独り言をつぶやいている。それから時々、思い出したように感情が高ぶって、泣いたり怒ったりした。そのたびに、蘭洙は兄をなだめなければならなかった。  叔父と叔母の口論は相変わらず続いていた。むしろ、激しさを増していた。  叔母は言う―ー光洙がいるせいで、町の人間がよそよそしく冷たくなった。もう耐えられない。明日中に何か行動を起こさないと、本当に出ていく、等々――叔母の声は日増しに高まっていき、二階にいる光洙と蘭洙にわざと聞こえるように言っているのではないかと、思うことさえあった。  その日も、哲基は妻との口論が平行線に終わったあと、足音を忍ばせて三畳間にやって来た。叔母は滅多に二階に上がってこなくなった。その埋め合わせをするように、哲基は一日に最低一回は様子を見に来てくれた。 「…光洙の具合はどうだ?」  哲基はかがみこみ、年少の甥の方に小声で聞いた。光洙はたまたま眠っていた。  蘭洙は叔父の問いかけに顔を上げた。以前、元気が余って手を焼くほどだったのに、今ではしょんぼりして、すっかり精彩を失っていた。 「昨日とあんまり変わらない」  布団に横たわる兄を見つめ、蘭洙は答えた。 「昼食も残してた。もう少し食べて力がつけば、きっと外を歩き回れるようになると思うんだけど……」 「そうか…」  哲基は光洙の顔をのぞきこむ。薄暗い部屋の中で、頬のこけた甥はまるで死んだように静かに眠っていた。 「――それで。お前、自分の準備は進んでいるのか?」  哲基は蘭洙にたずねた。言うまでもない。飛行学校へ出頭すべき日が、刻一刻と近づいていた。叔父の言葉に、蘭洙は顔を伏せた。 「…兄さんが」 「ん?」 「行くなって。行かずに、ここにいてくれって言うんだ」  哲基は再び光洙を見やった。やつれた寝顔が、何が何でも自分の言い分を押し通そうとする妻の顔と重なった。哲基はため息をついた。 「お前はどうしたいんだ、蘭洙?」 「…分かんないよ。どうしたらいいのか。こんなに弱った兄さんを置いて行きたくない。行きたくないけどさ……」  その声は今にも泣きそうだった。哲基は甥の肩に手をやった。そして片腕でぎゅっと力を込めて、蘭洙の肩を抱いた。 「ずいぶん、難義な立場だな。お前も」 「………」 「あのな、蘭洙。俺が思うにどんな人間にも、人生で必ず一度は幸運っていうのが舞い込んでくる。だけど、それは一度だけだ。つかみそこねたら、同じ機会は二度とめぐってこない。俺が言っていること、理解できるか?」 「…多分」 「行きたい気持ちが残っているなら行くべきだ。心配するな。光洙のことは、俺が責任を持つ。追い出したりはしない。だから、お前はしたいことをしろ……しなければいけないことじゃなくて、お前がしたいことをするんだ」  哲基は甥の背中をぽんと叩き、立ち上がった。ふすまを開けた時、後ろから「哲基叔父さん」と呼ばれた。  振り返ると、蘭洙が畳に手をつき、頭を下げていた。 「感謝します(カムサトゥリムニダ)」  哲基は軽くうなずき、また足音を忍ばせ階段を下りて行った。

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