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第7章⑫

「――行かないでくれ。蘭洙」  蘭洙が飛行学校に向かうその日まで、光洙は同じ台詞を繰り返した。 「落ちたら、すぐにでもここに戻って来るよ」  蘭洙はできる限り穏やかに、布団の上で身を起こした兄に言った。すでに旅支度は完璧に済ませてある。出立まで残された時間は、もうわずかだった。 「落とされて、戻ってきたらさ。もう飛行機乗りになるのは、きっぱりあきらめる。心をいれかえて叔父さんの工場で真面目に働くし、兄さんの世話だって……」 「行かないでくれ」  うわ言のように光洙はつぶやく。蘭洙の方に向けた目が潤んでいる。  光洙は枯れ木のようにやせ細った手を蘭洙の頬に伸ばした。兄の手の甲にある小さな黒い点を見て、蘭洙の心にさざ波が立った。幼い頃、蘭洙は遊んでいる最中に、不注意から尖った木の棒で兄の手の甲を突いてしまった。けっこう深く刺さり、血もかなり出た。それでも光洙は決して、怒ったり、蘭洙を責めたりしなかった。  そう。いつもそうだった。悪さをするのは蘭洙で、光洙はいつだって許してくれた。弟をなぐさめ、かばってくれた。  その兄が、こんなに自分に「行くな」と懇願しているーー蘭洙は無残にやつれた光洙を前にして、決心が揺らいだ。    まだ、間に合う。自分が夢を捨てさえすれば、こんな姿の兄さんを置いて行かずに済む。  そうすべきじゃないか……――。 「――ごめん、兄さん」  一度しかない機会ーー蘭洙は最後まで、それを自分から手放すことができなかった。 「わがままばかりで、本当にごめん」  蘭洙は病床の兄を抱きしめた。元々、細かった光洙の身体は、このひと月の間でふた回りは小さくなっていた。迷いを振り払うように、蘭洙は言った。 「…そろそろ出発の時間だから。俺、行くよ」  蘭洙が立ち上がりかけた時、光洙が乾いてひび割れた唇を動かした。  こぼれ落ちた声はかすれていて、最初、何と言ったか聞き取れなかった。 「兄さん……?」 「……行くのなら。もう、お前を弟とは思わない」  光洙は蘭洙を突き飛ばすように身を引いた。虚ろな黒い両目から、涙が流れた。そこには、自分の言葉を受け入れてくれなかった弟への悲しみと恨み、そして憎しみが満ちていた。 「お前はもう、ぼくの弟じゃない」  それが、蘭洙が光洙から直接聞いた、最後の言葉になった。

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