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第7章⑬

……蘭洙は飛行場へ向かって歩く。暑さと腹立たしさで煮えそうな頭には、さまざまな事柄が浮かんでは消えた。  大阪から列車を乗り継いで、埼玉県の所沢へ。所沢飛行場で一次試験を突破した二百人の受験生は、身体検査と適性検査、さらに面接試験を経て半分の百人にまでしぼられた。  蘭洙は――選ばれた百人の中に含まれていた。合格者たちはそのまま無線車に乗せられて、ただちに同県にある熊谷陸軍飛行学校へと運ばれた。そして二月一日、入校式を迎え、晴れて()えある飛行学校操縦生徒となった。  入校して以来、今に至る一年半弱の間、蘭洙は一度も大阪に帰っていなかった。夏期休暇の時も年末年始の時も、理由をつけて学校に残るか、ほかの場所へ旅行に行って過ごした。 「いいかげん、次の休みには帰ってきて顔を見せろ」  一向に帰ってこない甥に対し、叔父の哲基は手紙でそう寄こしてきた。  蘭洙の方でも時折、手紙を書いて自分が元気であることを故郷の両親や長兄夫婦、叔父夫婦に伝えていた。  もちろん、光洙に対してもだ。  だが、光洙から返事が返ってきたことはなかった。ただの一度も。事情を察してだろう。哲基は自分の手紙の中で、光洙の近況を教えてくれた。叔父からの手紙で、兄が徐々に健康を取り戻し、以前に近い生活が送れるまで回復したことを、蘭洙は知ることができた。  兄が元気になってきているーーそう聞いて、蘭洙は正直ほっとしていた。もちろん、別れた時に光洙から浴びせられたひと言を、忘れてはいない。それでも、兄が以前の状態に戻りつつなら、和解の望みは残されている。そう、信じていた。  だから、 「――光洙が消えた」  今年に入って受け取った哲基の手紙は、まさに青天の霹靂となって蘭洙を撃ったのだった。  光洙の失踪は、彼が特高警察に逮捕されて、ちょうど一年が経とうという頃のことだった。取り立てて、かわりばえのしない日だった。いつものように、光洙は朝、叔父の家を出て工場に入った。そして昼休みを迎え、工場から出て――。  そのまま、戻ってこなかった。  哲基は光洙を探して、家の二階にある三畳間に行った。その時はまだ、具合が悪くなって横になっているのか、ぐらいにしか思っていなかった。ところが、三畳間に入ってすぐに、哲基は甥のカバンと着替えが消えていていることに気づいた。  そこで部屋を改めて見渡すと、きちんとたたまれた布団の上に一枚の紙が置かれているのを見つけた。 「捜さないでください」  ハングルで、そのひと言だけが記されていた。  哲基は急いで、近所の人間に光洙の姿を見なかったかと聞いて回った。すると、ひとりの口から、カバンひとつで駅の方に向かう光洙の姿を見たと、目撃証言を得られた。  しかし、そのあとの足取りはフツリと途絶えた。  ……哲基は次の手紙、その次の手紙でも、光洙を見つけられていないと、蘭洙に知らせてきた。朝鮮にいる兄夫婦、すなわち光洙と蘭洙の両親にも手紙で仔細を知らせたが、故郷に戻った様子もなかった。  半年以上たっても光洙の消息は何一つ得られない。まるで、煙のように消え失せてしまったままだった。  ここ一二回、蘭洙が哲基から受け取った手紙では、ついに「光洙はまだ戻っていない」と短く書き添えられるだけになっていた。

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