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第7章⑭

 兄の失踪は無論、心配でならなかった。  だが、蘭洙は航空兵の卵として、訓練に明け暮れる日々だ。どうにもならない。思いあまって、教育班長の上原中尉に一度、相談してみたが、あまり真面目に取り合ってもらえなかった。 「小さな子供じゃあるまいし。大の大人が自分の意志で出て行ったのなら、そう心配いらんだろう。……出て行った理由? 同居している家族と折り合いが悪くなったとか、単に放浪したくなったとか、理由なんていくらでも思いつく。なに、(ふところ)具合が寂しくなったら、金の無心のために案外、ひょっこり戻ってくるさ」  それはいかにも常識的な判断だった。  しかし、蘭洙は光洙と別れた時の光景が、脳裏に焼き付いて離れなかった。兄の絶望的な眼差し。蘭洙を拒絶する台詞。それらは、想像力を悪い方向へばかり刺激した。 ――兄さん。いったい、どこにいるんだ?  ……飛行場まで、まだかなりの距離があった。  にもかかわらず、蘭洙の鋭い視力は、その一角で起こっている異変を見逃さなかった。  午後の訓練のために集合してきた同期生たちを、陸軍の軍服を着た五六人の男たちが囲んでいる。教官ではない。外部の人間だ。左腕に、遠目にも目立つ白い腕章がつけられていてーーそこに「憲兵」とはっきり書いてあった。  蘭洙は不審に思った。憲兵隊が飛行学校に何の用だ? しかも、教官ではなく学生を取り囲むなど、どう考えても尋常ではなかった。 「あ……」  囲まれていた生徒の一人が、近づいてくる蘭洙に気づいた。直後、その場に居合わせた全員の目が一斉に蘭洙の方に向けられた。異様な反応に、蘭洙は思わずその場で足を止める。  憲兵たちがこちらに近づいてくる。そして、示し合わせたような動きで蘭洙を取り囲んだ。  正面に二人。背後に三人。そして――。 「――貴様が金本勇か?」  蘭洙にそう尋ねた男は、この場で最も高い中尉の階級章をつけていた。年は三十を少し過ぎたほどで、黒いセルロイドの眼鏡をかけている。下から蘭洙をのぞきこむ目は、黒く色づけしたガラス玉のように見えた。 「…そうです」 「半島人(朝鮮人への蔑称)の金蘭洙で間違いないな」  男の漂わせる剣呑な空気に、蘭洙はただ「はい」とだけ答えた。  その途端、左右にいた二人の憲兵が、蘭洙の二本の腕を両側からがっちりつかんだ。 「連れていけ」  眼鏡の男が言った。  あまりの事のなりゆきに、蘭洙はあっけに取られた。 「ちょっと待ってくれ。いったい……」  その語尾に、顔を殴られる音が重なった。  眼鏡の中尉の容赦ない一撃をまともに受け、蘭洙は一瞬、意識が遠のく。だが、災難はそれだけで終わらなかった。憲兵中尉はまだ足りないとばかりに、蘭洙の頭や顔を立て続けに殴った。腕をつかまれているので、手をかざして防ぐことも、身をよじってよけることもできない。口の中が切れて血が出る。殴打されたところが熱を帯びる。男は最後にとどめとばかりに、蘭洙の腹を右足で蹴り飛ばした。 「がっ……」  軍靴の先がめり込み、蘭洙はたまらず胃液と先ほど食べた昼食を吐き出した。  地面に散った吐瀉物を、加害者の男は無感動な目つきで眺める。それから無言で、彼の部下たちにあごをしゃくった。  憲兵たちはふらつく蘭洙の腕をつかんだまま、引きずるようにその場から連れ去った。

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