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第7章⑮

 両側を憲兵たちにはさまれたまま、蘭洙は学校の正門近くに停められていた軍用車に乗せられた。ひどく殴られたせいで、そこからの記憶は断片的だった。  蒸し暑い車内。時々、目を刺すバックミラーの反射光。影絵のように過ぎていく街ーー。  それでも降ろされる直前、偶然見えた光景が蘭洙の目に焼きついた。  それは稠密に積み上げられた石垣と、巨大な堀だった。石垣の向こうに、木々が生い茂った広大な空間が広がっている。蘭洙はこの近くに来たことがあった。ちょうど今年の正月、この堀の周りを、徒歩でぐるりと一周したばかりだ。  北は樺太(からふと)、北海道から南は沖縄、台湾へ支配の手を伸ばし、大陸の朝鮮を飲み込み、今や「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」の名のもとで、中国の多くの都市を占領しつつある大日本帝国の中心。帝国臣民の上に君臨する「現人神」が住まう宮殿ーー天皇の宮城だ。  蘭洙は宮城を護るように配置された省官庁のひとつである、千代田区竹平町の東京憲兵司令本部へと連行された。  ……地下の一室にある椅子に座らされて、どれくらい時間が経ったか。  殴られたところは、もちろん手当などされていない。加えて、自分が吐いた胃液のせいで口の中は酸っぱく、服は汚れたままで、不快を極めた。  無論、いちばん不快なのは今のこの状況だが。  せいぜい六畳ほどしかない狭い空間に、四人の男が詰め込まれていた。蘭洙と、それから蘭洙をここに連れてきた憲兵たちの内の三人。いずれも威圧的な物腰で、蘭洙を眺める目つきは犯罪者に向けるそれだ。三人は押し黙ったままで、蘭洙がなぜここに連れてこられたか、説明もしなかった。  常人なら萎縮して、恐怖にかられてもおかしくない状況である。  しかし、蘭洙の顔に恐れは薄く、むしろ怒りの方が濃かった。不安よりも、この理不尽な状況への反抗心が、この時まだ勝っていた。  カッ、カッ、カッ――近づいてくる靴音に、蘭洙は反応して顔を上げた。扉がきしみを上げて開く音が、湿気と()えた臭いのこもる部屋に響いた。  現れたのは、先刻、飛行学校で蘭洙をさんざんいたぶった眼鏡の男だった。書記らしい別の憲兵を連れている。眼鏡の男は蘭洙にちらりと目をやり、そのまま机をはさんだ対面の椅子に座った。  白熱球の下で改めて見たが、本当にどこにでもいそうな男だった。中肉中背でおとなしそうな容貌は、軍服を着ていなければどこかの会社の会計係と言って充分、通りそうである。  だが、蘭洙はそれが表面上に過ぎないことを知っている。皮膚の下にある容赦のない一面を先ほど、身をもって知ったばかりだ。 「――最初にルールを言っておく」  平板な口調で男は言った。役所の窓にいる役人に似たそっけなさだ。 「こちらが質問する。貴様は正直に、最大限、知っていることを包み隠さず答えろ。嘘をついたり、知っていて故意に隠し立てをして、あとでそれが発覚した場合、ここにいる時間がそれだけ長くなる」  何より、と男は前のめりになり、蘭洙の腫れた顔をのぞきこんだ。 「ーー大阪や朝鮮にいる親類縁者に、相応の迷惑がかかると思え」  男の冷めた眼差しに、蘭洙はここに来て初めて血の気が引いた。  身体の中にため込んでいた怒りや反抗心が、みるみるしぼんでいく。両親や叔父たちを、人質にされたも同然だった。  蘭洙の反応に満足したようだ。男は再び、元の姿勢にもどった。 「――質問する人間の名前も知らんとやりにくかろう。いちおう、名乗っておく」  そう前置きし、男は事務的な口調で告げた。 「東京憲兵隊特高課所属、甲本貴助だ」

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