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第7章⑯

 甲本は最初に、蘭洙に関する基本的なことの確認から始めた。本名、通名、生年月日、本籍地、両親の名前と彼らの職業、兄弟の名前、朝鮮での最終学歴。それから、渡日した時期や日本での居住地、身元引受人である叔父のことや、飛行学校への入学年など――それが終わったあと、 「貴様が、兄の金光洙と最後に会ったのはいつだ?」  話題が急に光洙のことに及んだ。蘭洙はとまどった。 「……飛行学校の第二次身体検査を受けるために、叔父の家を出た日です」 「具体的にはいつだ?」 「昭和十二年一月です」 「それ以来、金光洙に会っていないというのは確かか?」  甲本は執拗にその点にこだわった。 「…はい」  答える蘭洙の脳裏で、嫌な考えがふくらんでいく。 ――兄さん、また何か警察沙汰になることをしたのか?  一昨年(おととし)の年末、光洙が特高警察に捕まった時の記憶がよみがえる。あの時、叔父の不安は的中せず、蘭洙に累が及ぶことはなかった。だが、今は……。  蘭洙が抱いた予感は、甲本が質問を重ねるにつれて、確信に変わった。 「金光洙が今年の一月に、叔父である金哲基の家から出奔したことは、知っていたか?」 「叔父からの手紙で知りました」 「金光洙は自分の行き先について、貴様に何も知らせなかったか?」 「何も、聞いていません」 「兄弟なのにか?」 「…飛行学校に入ってから、兄とはまったく音信不通です」  それを聞いた甲本の表情が、不意に険しくなった。無言で背後の部下にあごをしゃくる。するとたちまち、憲兵たちが蘭洙の肩を押さえた。何だ、と身構える間があればこそ――甲本は、短く刈られた蘭洙の髪をつかむと、その顔面を机めがけて叩きつけた。しかも、一度ではなく二度も。  それでも、甲本は打ちつける時に手心を加えた。さもなくば、相手の歯や鼻は骨が折れていただろう。蘭洙の鼻から鼻血があふれる。  驚きと衝撃を隠せぬ少年の眼球に、甲本は蓋を外した万年筆の切っ先をつきつけた。 「航空兵の卵だ。視力を失うのは、困るだろうな……警告したはずだ。うそはつくなと」 「うそって……俺は、うそなんかついていない!!」  甲本は万年筆を近づける。あと1センチも押し込めば、そのまま蘭洙の眼球を串刺しにできる距離だ。甲本は言った。 「貴様は兄と手紙のやり取りをしていたはずだ」

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