108 / 370

第7章⑱

 蘭洙は知る由もなかったが、この時、東京の中心では事件から一夜明けてなお、蜂の巣をつついたような騒ぎが続いていた。  葉山御用邸へ向かう皇太子の御料車は、からくも爆弾の魔手を逃れた。爆弾は皇太子の車から五十メートルほど後方で爆発したのである。爆風で飛んできた破片により、車体には何十もの細かい傷がついたものの、皇太子を含む乗員は無傷であった。  しかし、使用された爆弾の威力はすさまじく、直撃をくらった後続車は原型が分からぬほどバラバラとなった。乗っていた運転手と侍従は即死。さらに沿道の通行人七名が、治療の甲斐なく夜が明ける前に落命した。  その後、警察が把握しただけでも、三十数名の重軽傷者が出ていた。  これほど凄惨な、何より皇太子という天皇に次ぐ皇室の重要人物を標的としたテロは、過去にも例がなかった。  自分たちのひざ元でかような事件を起こされた警視庁と東京憲兵隊は、事件の捜査に全力を注いだ。事件を計画した大逆人たちを、草の根を分けて追い求め、その過程で少しでも関係者とみなされた人間は遠慮仮借なく逮捕された。彼らには、容赦のない尋問が待っていた。  蘭洙が東京憲兵隊によって拘束され、連行された時点で、似たような理由で自由を奪われた人間は、百人近くにのぼっていた。  そして警察によって全国で逮捕された者は、その何倍にも上ろうとしていた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  ーー憲兵司令部の命令を受け、捜査を指揮する東京憲兵隊長の間場(まば)源一郎(げんいちろう)大佐は、激務のさなか、ある二人の人物と面会を盛った。どちらも、間馬が招いていない客人である。ただし、むげに追い払うこともできない相手だった。  ひとりは、熊谷陸軍飛行学校の教官である上原中尉。そして、もうひとりは――。 「うちの学生が一人、こちらに連行されたと聞いた。即刻、解放していただきたい」  そう言ったのは上原と親子ほども年の離れた五十路の男だった。小柄だが、あまりそのように感じさせないのは、三十年余年にわたる軍人としての経歴が成せるわざだろう。丁寧な口調も表面上のものに過ぎず、実質、間馬大佐に対する命令であることは、軍服の肩につけられた星が物語っていた。  熊谷陸軍飛行学校の校長。陸大(陸軍大学校)の「軍刀組(卒業時に限られた成績優秀者に軍刀が恩賜されることから名づけられた)」で、陸軍の中でも高潔の人として知られる高島実巳(たかしまさねみ)中将その人であった。 「……閣下。申し訳ありませんが、そのお言葉には従いかねます」  間馬の声は落ち着いているが、背中と脇の下は冷や汗でびっしょりだった。兵科が異なるとはいえ、相手は何といっても中将だ。受け答えの如何によっては、間島の今後の進退に影響が出ないとも限らなかった。 「少なくとも、小官の一存では。すでにお耳に入っていると存じますが、貴校の学生である金本勇、本名、金蘭洙は昨日帝都で発生した重大事件の実行犯、金光洙の弟です。最重要参考人として、今後しばらくはわが憲兵隊の方で拘留して尋問の必要が――」 「貴官の部下が来校した時、あいにく私は留守でね」  間馬の弁解を、高島は穏やかにさえぎった。 「ここにいる上原中尉から事の次第を聞かされた時はずいぶん、驚かされたよ。せめて、私が公務で不在となる午後ではなく、午前に来るべきだったな。それも事前に電話の一本でも入れてくれれば、相応の対応はしてやれただろうに」  間馬の背中をつたう汗の量が増える。学校側との無用な衝突を避け、可及的速やかに被疑者を拘引するよう甲本中尉に指示したのは、ほかならぬ間馬だった。金蘭洙を手中に収めさえさえすれば、学校側が後から何と言おうとも適当にあしらっておけばよい――そう判断したのである。まさか飛行学校の校長自ら東京までやって来るというのは、完全に想定外だった。  高島は間馬を静かに見据えた。 「憲兵隊は、あたかも私の留守を狙いすましたように、断りもなく学内に踏み入り、金本学生を拉致同然に連れ出した。まるでコソ泥か強盗と同じやり口だ――と、そのように受け取られても仕方がないぞ」 「…まことに面目次第もありません」  間馬は頭を下げた。ただし、 「部下の監督が行き届いていなかったようで、不愉快な思いをさせてしまいました」 と、さりげなく甲本に責任を転嫁することを忘れなかった。 「しかし、閣下。すでに申し上げた通り、実行犯、金光洙について、あらゆる情報を得ることが小官に課せられた職務であります。憲兵司令の命令がない限り、金蘭洙を拘束し続ける決定はくつがえりません」 「ならば、せめて面会を」 「お控えください」  その後、間馬は高島に何と言われようが、「憲兵司令の命令」を盾に要求をつっぱね、ついに業を煮やした中将に、席を立たせることに成功した。

ともだちにシェアしよう!