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第7章㉑
麹町隼町――通称、三宅坂にある航空本部は、高島が昨日訪れた東京憲兵隊や、桜田門前にある警視庁に比べれば、まだ平静さを保っているように見えた。その建物の一室で、高島は東條と対面した。
東條英機中将が満洲から内地に呼び戻されて陸軍次官に任じられ、さらに航空本部長を兼任することになったのは、つい先月のことである。
高島が東條と初めて出会ったのは、もう三十年近く前に遡る。二人は士官学校の同期であった。とはいえ在学中、特に親しかったわけではない。正直なところ、高島にとって東條は取り立てて印象に残る男ではなかった。
だが、二年前に発生した二・二六事件(一九三六年二月二十六日、青年将校によって起こされたクーデタ未遂事件)のあたりから、この男は徐々にその頭角を現してきた。当時、東條は関東軍で憲兵隊司令を務めていたが、海を越えて満洲の関東軍内にまで波及した混乱をいち早く鎮静化することに成功した。その功績もあって、翌年には関東軍参謀長の地位を得ている。今年に入り、東條は改めて内地に戻ってきたが、すでに次の陸軍大臣の候補者として、その名がささやかれていた。
その東條が高島を呼び出した。一体、どういう理由で?
「――陸軍大臣がね」と、東條はやって来た高島に切り出した。
「皇太子殿下を殺害せんとした大逆人の弟が陸軍飛行学校の生徒と知って、ひどく動揺なさっているんだよ」
「動揺とは?」
高島は聞き返す。東條は目の前に置いた緑茶を、必要以上に時間をかけてすすった。もったいぶった動作のあと、東條はおもむろに言った。
「実行犯の金光洙は狂人だ。その身内、陸軍内に受け入れたこと自体、大きな過ちだったと大臣はお考えだ」
「…金本勇、本名を金蘭洙と言うが、彼個人は優秀な学生だ。思想面についても他の学生よりずっと注意深く観察がなされてきたが、今まで問題は認められてこなかった」
「ほう、それは本当か?」
「本当だ……実を言えば、金蘭洙が入学したあと、兄のことが一度、教員の間で問題視されたことがあった」
高島は東條を見る。続きを話せと、その顔が促している。どうやら、「かみそり」のところにこの情報はまだ届いていなかったらしい。
「金蘭洙の兄には逮捕歴があったんだ。罪状は、治安維持法(1925年に制定された法律で、当初は共産主義者の取り締まりに適用されたが、徐々に時の政府にとって都合の悪い思想やそれを唱える主義者の取り締まりに利用された)違反。朝鮮の分離独立を主張する冊子の作成に関わって、特高に捕まった」
それを聞いて、東條は大げさにのけぞった。
「なんと! 入学前に、どうしてそれが見過ごされた?」
「金蘭洙の兄、金光洙が逮捕されたのは第二次の身体検査が行われる一ヶ月前だ。警察から情報が回ってきた時には、すでに入校式が終わっていた」
「それで? そんな身内がいる学生を、退学させようとは思わなかったのか?」
東條に問われ、高島は当時のことを思い起こした。
金蘭洙の処遇について話し合いが持たれた時、学校内の幹事、教育隊長、その他教官の内、少なからぬ者が退学の方に傾いていた。それに対し、身体検査や面接の結果を引き合いに出して、将来有望な人材の芽をつむことに反対する意見も根強かった。
最終的に、校長の高島が下した結論は――「経過観察」。
金蘭洙の挙動をひそかに監視し、もしも危険思想が認められた時には、改めて退学を勧告するというものだった。
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