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第7章㉒

 高島も軍人である。危険な因子になるかもしれない人間の私事を調べ、把握することは軍内の規律を保つのに必要不可欠と考えていた。  それから一年五ヶ月。蘭洙の学業成績や素行、人間関係、さらには手紙を通した外部とのやり取りは飛行学校の者によって細かくチェックされ、定期的に高島のもとへ知らされた。  その中には、金蘭洙が同期生たちから、(ねた)(そね)みによるいじめや嫌がらせを受けているという報告も含まれていた。そして、金蘭洙がそれにただ黙って耐えているだけでなく、時に反撃し、ケンカに発展することがあるということも。  そういう一連の報告を受ける内に、高島は少しずつ金蘭洙に感心しはじめた。  周囲からの様々な圧力に屈することなく、悔しさをばねに努力し邁進する気概と根性のある少年――そう、高島の目に映った。  そして金蘭洙が入校して一年が経とうとする頃、高島は偶然、校外で彼と話す機会を得た。今年の正月のことだ。東京の自宅に戻っていた高島は、正月ということもあって着物姿で外出したのだが、帰り道の市電でたまたま、飛行学校の外套と制帽を着用した少年を見かけた。よくよく見れば、金蘭洙である。ふと、稚気(ちき)を起こした高島は、わざわざ席を移動して、蘭洙に近づき、話しかけた。 「飛行学校の学生さんですか?――いや突然、話しかけて失礼でしたね。私の息子も航空科の兵隊なもので、つい……」  着物姿では気づかれまい。高島の思惑通り、蘭洙は人の好さそうな初老の小柄な男が、まさか自分の学校の校長だとは露知らず―ー大体、一介の学生が校長にお目にかかるのは式典の時くらいだーー、そのまま話し相手になった。 「飛行学校は難関と聞きます。その学生さんとなれば、ご家族はさぞかし鼻が高いでしょう」  そう高島に言われた時、蘭洙の顔に一抹の寂しさがよぎった。その理由を高島が尋ねると、 「……実は、受験することを家族のひとりに反対されたんです」  見ず知らずの他人と思った故だろう。蘭洙はつい、そんなことを口にした。 「反対されたのは、どなたです?」 「兄です。まだ怒っているようで、手紙を書いても返事もくれません」  「おや……」  高島は軽く驚いてみせた。すでに知っていたことだ。金蘭洙が送ったり、逆に彼のもとに来る手紙は、本人のあずかり知らぬところで、学校の教官により開封されている。彼は叔父と兄にもっとも多くの手紙を出していたが、確かに後者から送られた手紙は一通も確認されていなかった。 「…いずれ、仲直りできると思っています。でも、中々その機会がなくて」 「つらいお立場ですね」 「はい。でも、後悔はしていません――自分で選んだ道ですから」  そう言った金本勇――金蘭洙の横顔は、まだ十七歳という年齢にも関わらず、すでに自分の人生を自分自身で切り開こうとする意志に満ちていた。  ……高島と蘭洙の会話は、市電が目的地に着くまでのほんの短い間に交わされたに過ぎない。それでも直接会ったことで、高島はこの少年のことがより一層、気に入った。 ――皮肉なものだ。  高島はそう思う。金蘭洙を注意深く監視し続けた結果、彼が兄の金光洙とうまくいっておらず、この一年半ほとんど没交渉であることを、はからずも証明することになった。  だからこそ――金光洙が起こした事件によって、蘭洙が憲兵隊に連行されたと知った時、何としてもこの無実の若者を救わねばならないと思った。  見殺しにすることは、高島の中にある良心が許さなかった。

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