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第7章㉕

「…気の毒だが、それは無理だ」  少しも気の毒がっていない声で、甲本は応じた。蘭洙の顔がゆがむ。  甲本は、この朝鮮人の男に限界が近づいていることを見て取った。体力的にも、精神的にも。尋問するには悪くない状態だ。うそを考えつくだけの思考力も気力も、底をついている。  甲本が再び口を開きかけた時だ。部屋の外がにわかに騒がしくなった。  甲本は顔をしかめた。一体、どこの粗忽者(そこつもの)だ?  鍵が回る音がして、現れたのは甲本の上官――憲兵隊長の間馬大佐だった。  蘭洙に注意を払いつつ、慌ただしくやってきた上官に対して、甲本は敬礼した。 「…何事ですか?」  間馬は部下の問いに応えず、いらだたしげに手を振った。「退け」というジェスチャー。  その仕草に甲本は内心、不服だったが、あくまで無表情を保ってまま間馬を通した。  間馬は甲本と蘭洙の間に立ち、傷らだけの若者を見下ろした。 「…まだ生きているな。けっこう」  間馬は満足したように鼻を鳴らした。 「いい知らせだ。少なくとも今夜の内は貴様を生かしておくよう、上から指示があった。明日以降について、保証はないがな」  そう言って、甲本の方を振り返った。 「―ー聞こえたな」  その台詞は甲本に向けられたものだった。甲本は、これまで以上に目の前の大佐への軽蔑を深めた。たとえ上官とはいえ、尋問すべき被疑者の目の前で事前の打ち合わせもなく、かような重要な情報をいきなり開示すべきではない。今後の尋問に、差し(さわ)る。  甲本は腹立たし気に思った。とにもかくにも、間馬には一刻も早く退散してもらう必要がある、と。  この時、甲本は彼らしくない不用心な――そして致命的失敗を犯した。  間馬大佐に対する憤りのせいで、蘭洙に向けるべき注意が間馬の方に()れた。その場にいた他の憲兵たちも同様で、そして間馬に至ってはもはや背後の朝鮮人のことなど完全に眼中になかった。  死角となった机の下で、蘭洙の右手が間馬の腰の拳銃嚢(ホルスター)に伸びるのを全員が見逃した。  次の瞬間、蘭洙はもう一方の手で机を持ち上げるや、それを甲本めがけて思いきり蹴り上げた。甲本は完全に意表を突かれた。一昼夜、まともな水分も食べ物も、そして睡眠も与えられず、拷問を交えた尋問を受けた人間にこんな力が残っているとは、さすがの彼も思っていなかった。床に固定されていなかった机は狙いあやまたず、憲兵中尉を巻き込んで彼をひっくり返らせた。  蘭洙の行動は荒々しくも素早かった。甲本以上に反応が遅れた間馬大佐の首に左腕を巻きつけると、そのまま後方に飛びすさり、壁を背に立った。そして、仕上げとばかりにあらかじめ留め金を外した大佐の拳銃嚢(ホルスター)から九四式拳銃を奪うと、その銃口を持ち主のこめかみにつきつけた。 「動くな!!」  蘭洙の声がしなる鞭のように憲兵たちの間を駆け抜けた。

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