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第7章㉖
「動いたら、この男を撃つ。脅しじゃない!」
蘭洙は右手を少しだけずらすと、躊躇なく引き金を引いた。耳をつんざく音が部屋中に響きわたり、発射された弾丸がすぐそばの柱の表面を吹き飛ばした。憲兵たちは拳銃を抜いていたが、間馬に弾が当たることを恐れてうかつに撃てない。何より、
「おいこら、撃つな!」
人質本人にそう叫ばれては、引き金を引きようがなかった。
憲兵たちの反応をうかがいながら、蘭洙が言った。
「銃をしまえ」
その要求に憲兵たちは当然、すぐには動かなかった。だが、
「全員、言われた通りにしろ」
机の下から脱出した甲本に言われ、屈辱的な顔でめいめい拳銃嚢 に拳銃をおさめた。
甲本はさすがに青ざめていたが、まだ冷静さは失っていなかった。現状を素早く整理する。
目の前には、人質になった間抜けな憲兵将校。
その背後に、彼の自由を奪っている逆上した朝鮮人。
軍隊生活がそれなりに長い甲本であるが、ここまで珍妙な光景は目にしたことがなかった。
この状況を打破する一番手っ取り早い方法は、間馬の存在を無視して蘭洙を蜂 の巣 にすることだ。それは間違いない。正直、間馬の通夜 を明日執り行う結果になっても、甲本個人はさほど心痛まない。とはいえ、どんなに内心、軽蔑しているとはいえ、間馬は上官であり、甲本には救出する義務がある。
そして義務こそ、甲本貴助という男がもっとも重きを置く事であった。
甲本は蘭洙から――特に拳銃を握る手から目を離さずに言った。
「…間馬大佐を今すぐ解放しろ。そうすれば、命だけは助けてやる」
それを聞いて、蘭洙は口の端をゆがめた。
「いやだね。この男を自由にしたら、あんたは間髪入れずに周りに『撃て』って言うだろう」
「そんなことはしない」
蘭洙は信じなかった。
「ーーあんたが思っているほど、俺は馬鹿じゃない。ここまでのことをしたんだ。どのみち死ぬのは避けられないって、分かっている」
蘭洙が左腕に力をこめると、間馬ののどから言葉にならない悲鳴が上がった。おまけに、
「間馬大佐どのと心中するのは、あまり賢明な死に方とは思えないが」
と甲本が言ったものだから、不幸な大佐は早くも死人のような顔つきになった。
「この男を殺されたくなかったら」蘭洙は言った。
「俺の兄の金光洙をここに連れてこい。今すぐ」
「…連れてきて、どうする気だ?」
甲本の問いかけは、思いがけず蘭洙の痛い所を突いた。
一体、光洙に何が言えるというのだろうか。
問いつめる?――どうして爆弾を用いて、テロなど起こしたのか、と。
あるいは、恨みをぶつけるか?――兄さんの行いのせいで、俺は殺されそうになっている。人生もメチャクチャになった、と。
分からない。けれども、このまま兄に会わないまま死ぬことだけは、耐えられなかった。
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