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第7章㉗

 ……甲本は冷めた表情の下で、めまぐるしく考えを巡らせた。  先ほどと同じ「兄に会わせろ」という要求。金蘭洙の顔に一瞬よぎった、少年めいた表情。一方的に送られた何通もの手紙には、金光洙への気遣いと「会いたい」というけなげなまでの願いが率直に綴られていた……。  血を分けた兄弟。  目の前に立つ傷だらけの男に対して、甲本は初めて哀れみに近い感情を持った。同時に極限まで研ぎ澄まされた思考は、金蘭洙の兄に対するこの執着を利用すれば、現状を打破できることを冷徹にかぎつけていた。 「……分かった」  甲本がそう言った時、憲兵たちの表情に等しく驚きが走った。甲本はいちばん近くにいた憲兵に何ごとか耳打ちする。聞き終えると、彼は甲本を見て、それから一瞬蘭洙に目を向けたあと、かすかにうなずいた。  憲兵が出ていき、戻って来るまで五分とかからなかったはずだ。だが、室内の人間たちにはその何十倍もの長さに感じられた。蘭洙は間馬大佐に銃を向けたまま、口を閉ざして警戒を続ける。甲本も何も言わない。  両者のにらみ合いは例の憲兵が戻ってきた瞬間でさえ、途切れなかった。  扉が開く。だが、入ってきたのは先ほどの憲兵一人だけだ。誰も連れてきていない。ただ、その手に何か黒っぽい包みを抱えていた。  憲兵から包みを受け取った甲本は、蘭洙に向き直った。 「…貴様に、伝えていなかったことがある」  甲本はおもむろに口を開いた。 「皇太子殿下の御料車(ごりょうしゃ)の列が通りかかった時、金光洙は沿道から車めがけて飛び出した。その時、たまたま近くにいた警察官がやつを取り押さえようとしたが、失敗した。その警官がつかめたのは、金光洙が肩からかけていたカバンと、この暑さの中、着ていた上着だけだった―――」  甲本のひと言、ひと言が蘭洙の耳に突き刺さり、頭の中をひっかきまわす。まるで澱んだ泥から掻き出されるように、いくつもの光景が――見ていないはずの景色が浮いてくる。  着古した灰色の上着を着て、夏の日に晒される兄。やって来た黒塗りの車へ必死の形相で飛び込もうとし、制止しようとした警官の手からも逃れ、そして―――。  甲本は蘭洙に告げた。 「警官には、はっきり見えたそうだ。身体にいくつもの爆弾を巻きつけた男が、そのまま御料車の一台の下にもぐりこむのを。その直後、大爆発が起こった」 ーー今。何と、言った?  蘭洙は聞き返そうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。  声を失う蘭洙の前で、甲本が手にしている包みをほどいていく。  見るな。見てはいけない――本能が告げる声と裏腹に、蘭洙は包みから目をそらせない。 「――我々の仲間が現場に駆けつけた時、そこには戦場さながらの光景が広がっていた」  甲本は露わになった包みの中身を、蘭洙の方へ(ほう)った。  それは蘭洙の足元の床に触れて、鈍く重い音を立てた。 「発見された金光洙の死体は、見るも無残なありさまで、すべてをかき集めるのは不可能だったーーが、一番ましな部類だ」  尋問部屋の白熱球に照らされて転がったのは――ひじから下だけが残った人間の右腕だった。  蘭洙はただただ、それを見つめた。  手の形を覚えている。そのやさしい感触も。蘭洙をなでてくれた時の温かい掌も。  何より手の甲に浮かぶ黒い点が――幼い頃に蘭洙が不注意でつけてしまった傷が、たったひとつしかない残酷な事実を告げていた。  この右腕は――光洙の腕だ。 「――兄さん……!!?」

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