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第7章㉘

 自分が人質を取っていることも、そして憲兵たちに囲まれて一秒後に射殺されるかもしれないことも、すべて蘭洙の頭から消し飛んだ。  そこから十秒足らずの間に、いくつものことが起こった。  人質の首に巻かれていた蘭洙の腕がゆるむ。逃げ出す機会をうかがっていた間馬大佐は、その唯一無二の瞬間を逃さなかった。蘭洙の腕を易々とほどくと、間馬はただちに自由を回復した。だが、東京憲兵隊長はこの日、どこまでも不運だったようだ。  自分を人質にしていた男を突き飛ばして、間馬が距離を取ろうとした時だ。蘭洙の手から間馬の拳銃が滑り落ちた。暴発しやすいことで知られる九四式拳銃は、床に接触した瞬間、その欠点を遺憾なく発揮した。  銃声が轟き、発射された弾は銃口がたまたま向いていた方角へ――すなわち間馬の尻の方めがけて飛んでいった。  間馬の口から、「ぎゃあ」という悲鳴が上がる。それに、甲本の鋭い声が重なった。 「全員、撃つな! 発砲したやつはあとで命令違反のかどで軍法会議にかける!――負傷された間馬大佐を直ちに病院にお連れしろ!」  何をすべきか命じられた憲兵たちが、直ちに動き出す。  運び出される間馬にはもう目もくれず、甲本は彼が確保すべき対象の方を向いた。  蘭洙の目には、周囲の狂躁が何一つ目に入っていないようだった。床にへたりこみ、千切(ちぎ)れた兄の腕を前にして動かない。 「……兄さん(ヒョン)兄さん(ヒョン)うそだ(コジュンマリダ)こんなのうそだ(イルンガニコジュンマリダ)……」  朝鮮語で発せられる言葉を、甲本は何一つ理解できなかった。仮に理解できたところで、彼が行動を変えることもなかった。憲兵中尉は部下の一人に合図すると、光洙の腕を包んでいた黒っぽい布を手に、自失する蘭洙の背後に音もなく回りこんだ。    二人がかりで蘭洙を床に押さえ込むと、甲本はその首に布を巻きつけ、思いきり絞め上げた。蘭洙が暴れたのは、ほんの一瞬だった。両手を反射的に首にやり、掻きむしる動作をしたが、すぐにそれもやんだ。  蘭洙の手がだらりと床に落ちたところで、甲本はようやく絞めるのをやめた。

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