121 / 370
第7章㉛
――やられた。
東條を目にした瞬間、高島は理解した。自分より、この「かみそり」の方が一枚も二枚も上手だった。東條は憲兵司令官の津川にすでに接触をはかっていたのみならず、ここまでついて来ることを了承させた。津川は十中八九、東條側についている。
だが、肝心なことが高島には読めなかった。
――東條は一体どんな目的をもって、ここに来たのか。
高島の内心の葛藤などおかまいなしに、東條は座卓の向かいに津川と並んで腰を下ろすと、芝居がかった仕草で部屋をぐるりと見わたした。
「中々、趣のある場所を知っているじゃないか、高島中将。今度、時間がある時にゆっくりとくつろぎたいものだな」
「はぐらかしは、けっこう」
高島の突き放すような態度に、航空本部長は丸眼鏡の奥で軽く目を細めた。
「…そうだな。私も津川中将も、忙しい身だ。本題に入らせてもらおう」
たった一人の学生の身柄を確保するために、東奔西走している高島に対する、それは当てこすりであった。
剣呑な雰囲気で対峙する高島と東條を前に、ここで津川が初めて口を開いた。
「金蘭洙に関して、東京憲兵隊から上がってきた報告書を読んだ。高島中将、あなたが校長をつとめる飛行学校において、入校以来行われてきた調査も含めて。そして、結論から言えば――金蘭洙が朝鮮愛国団とつながっていたという証拠は、現時点で見つかっていない」
それから、と津川が高島を見てつけ加える。
「東京憲兵隊には、金蘭洙を死なすなと厳命してある」
その言葉を聞いた高島は、期せず安堵した。心のどこかで、金蘭洙がすでに殺されているのではないかという疑念が、ずっと渦巻いていたからだ。だが、安心するのはまだ早い。
東條が言った。
「さて。ここからが本題だ。津川中将が言うように、金蘭洙がクロだという証拠がないのならこれ以上、拘束しておく理由も消える。ただ――金蘭洙を飛行学校に戻した場合、また別の問題が生じるのは、目に見えている」
「………」
「飛行学校の生徒たちはいずれ、皇太子殿下が爆殺されかかったことや、その実行犯が金光洙という朝鮮人だと知る。そのことと、金蘭洙が憲兵隊に連行されたことを合わせれば――いずれ、二人が兄弟だとつきとめるだろう。ひょっとすると、勘のいい者ならもう気づいているかもしれん。そうなれば…大逆人の弟を陸軍に置き続けることに対し、彼らが何も感じない訳がないし、その感情は摩擦や混乱のもとになろう」
高島は黙り込む。腹立たしいが、東條の言が的を射ていることを認めないわけにいかなかった。
「そこで、だ。解決策をひとつ提案したい」東條は言った。
「憲兵隊から解放した金蘭洙だが、やつは熊谷飛行学校には戻さない。無論、七月末の卒業式に出ることもない。卒業証明だけを与え、明野飛行学校へ入校させる」
ここまでは、まっとうな案だと高島も思った。
熊谷飛行学校で一年半学んだ操縦兵の卵たちは、その後、決められた分科ごとに別々の飛行学校へと再入校する。すなわち、戦闘班(戦闘機)は明野飛行学校、偵察班(偵察機)は下志津飛行学校、軽爆班(軽爆撃機)は浜松飛行学校、重爆班(重爆撃機)は満洲国の平安鎮飛行場へという具合だ。成績優秀な金蘭洙は、戦闘班に進むことが決まっていた。
「ただし――」と、東條は間を置いて続けた。
「明野では、他の戦闘班の生徒とは接触させず、最短期間で九五戦と九七戦(九五式戦闘機と九七式戦闘機)の操縦を習得させ、そのあと直ちに北支那(北中国)へ行かせる。河南省の安陽でまもなく新たな飛行隊を編成する予定だ。それに配備すればいい。さすがにそんな場所なら、やつの身内についてあれこれ詮索する人間はおらんだろう」
「……つまり」
高島は険しい顔で、東條を見据えた。
「こういうことか。金蘭洙に十分な戦技習熟の期間を与えず、未熟なまま前線に送り込むと」
ともだちにシェアしよう!