123 / 370

第7章㉝

 蘭洙が東京憲兵隊のもとから解放されたのは、その翌日のことだった。足取りのおぼつかぬ蘭洙は外に出た途端、そのまま待ちかまえていた教育班長の上原中尉に連れられて埼玉県内の病院に入院することになった。  怪我そのもの以上に、空腹、脱水と極度の疲労、そして――光洙の死が、蘭洙の身体と心を完膚なきまでに痛めつけていた。入院直後から、蘭洙は高熱を出して寝込んだ。それがようやく下がり始めたのは五日が経過した頃だった。  ちょうどその日、上原は用事があって病院を訪れた。上原を病室に案内する看護婦は、歩きながらこの中尉に彼女が受け持つ入院患者の状態を伝えた。 「食事に、まったくはしをつけようとしないんです」 「食べられるはずなのに?」 「はい。ブドウ糖なんかを点滴して何とかつないでいますが、ここままじゃ……」  続きは言わずとも明らかだった。  上原が部屋に入ると、その気配で寝ていた蘭洙がうっすらと目をあけた。その枕元には看護婦が言った通り、病院の食事が手をつけられないまま冷めていた。 「……腹がすいているなら。食事が済むまで待ってやる」 「いいえ」蘭洙は上体を起こして首を振った。 「大丈夫です」  色の悪い顔は、少しも大丈夫に見えなかった。上原はよほど、(かゆ)のさじを無理やり口に突っ込んでやろうかと思ったが、相手は金蘭洙だ。無理強いしても逆効果にしかならないことを上原はとうの昔に学んでいた。 「…渡すものがあって来た」  そう言って、上原はカバンの中から持参した書類一式を取り出す。 「ひと足早いが、卒業の証書の類だ。退院しだい、三重の明野陸軍飛行学校に行ってもらうことが決まった」 「……」  蘭洙はほとんど反応しなかった。上原の方を見てはいるが、まるで相手が壁の一部でしかないような目つきである。上原はため息をついて、書類を部屋の隅に置かれた蘭洙の荷物の上に置いた。彼の私物はすでに、熊谷からすべてここに運ばれている。元いた飛行学校に、もはやこの生徒の居場所はなかった。 「それから――」  もうひとつ、上原は持ってきたものがあった。書類かばんに入らず、風呂敷に包んで下げてきたのだが、ここまで持って来るのにいささか労力が必要だった。小さい見た目から想定されるより、ずっと重かったからだ。 「――いいか。これを受け取ったことは、絶対に口外するなよ」 「なんですか、それ」  興味のなさそうな蘭洙に向かって、上原は声を低くして告げた。 「骨壺だ――お前の兄の」  変化は劇的だった。それまで置物のように動かなかった蘭洙が、急に身を乗り出した。  ……金蘭洙を飛行学校から拉致した憲兵中尉――確か、甲本という名前だったが、その男がわざわざ熊谷までこれを持って来た時には、さすがに上原も驚いた。  甲本は中に汚物でも入っているような目つきで、風呂敷に包まれた骨壺を上原に手渡した。 「金光洙の遺体の処分は私に一任された。間違っても朝鮮人たちの独立の象徴にさせないために、無縁仏として隣県の寺に埋めることにした。書類上の手続きも済んでいる」 「……だったら、ここにあるこれはなんだ?」  上原の問いに、憲兵中尉は黙り込む。ややあって、 「骨になってそこに収まっている男はクズだ」  そう言う甲本の声には、一片の哀れみもなかった。 「皇太子殿下を暗殺せんとし、無関係の民衆を巻き込んで殺した非道な行いを思えば、正直、骨はゴミとして捨ててしまってもいいと個人的には思っている――だが、そんなクズの骨でも、黄金以上の価値を認める人間もいる」  甲本は眼鏡をはずすと、わざとらしく視線をそらした。 「私はその人間に対して、少しばかり同情した。ただ、それだけのことだ」  甲本が誰のことを言っているのか、上原はすぐに察しがついた。そして同時に――この冷酷非情な憲兵中尉が、いささかでも人間らしい情を持ち合わせていたことを意外に思った。  甲本は上原にどう思われようが、一向に気にする素振りもない。「口外厳禁」を約束させると、さっさと踵を返して東京へと戻って行った。

ともだちにシェアしよう!