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第7章㉞

 上原は蘭洙の手と手の間に、遺灰を詰めた陶器の壺を置いてやった。 「あと一度、退院の日に来る」と言って立ち上がる。去り際に、上原は病室の入口で蘭洙の方を振り返った。 「…お前を憲兵隊から解放してもらうために、校長の高島中将閣下がずいぶん骨を折ってくれたんだ。閣下から余計なことは伝えるなと言われていたが――その恩に報いる気があるなら、早く元気になれ。食事を拒んで餓死なんて、そんなみっともない死に方を選ぶんじゃないぞ」  上原が出て行った後、蘭洙はまだしばらく動かなかった。  ただじっと、手の中にある安っぽい骨壺を見つめる。やがて、ひび割れた口から「兄さん」という呼びかけがこぼれ落ちた。 「兄さんはバカだ。自分勝手だ。自分のやったことが、どんな意味を持つのか本当によく考えたのか? 自分が死ぬことを何とも思わなかったのか? 俺や叔父さんたちや、父さんや母さん、仁洙(インス)兄さんにどれだけ迷惑かけるか、ちっとも想像つかなかったのか?――」  蘭洙の両眼からあふれた涙が頬をつたって、陶器の壺の表面に流れ落ちる。 「兄さんが死んだら、俺がどんな気持ちになるか、考えなかったのかよ…!!」  骨壺を握りしめ、蘭洙は泣き崩れた。  もしも、なんて仮定は今さら何の役にも立たない。けれども、考えずにはいられなかった。  もしも自分が夢をあきらめていたら。飛行学校を受験しなかったら。叔父の工場で働くことを選んでいれば。兄に請われるまま、そばから離れず一緒に暮らすことを選んでいればーー。  光洙が愚かな道へ突き進むのを、止められたかもしれない。  そして今も――兄は生きていたかもしれないのだ。  蘭洙は再び骨壺を見る。それは「死」というものを、これ以上ないくらいにはっきりと物語っていた。光洙の柔らかい面差しも温かな手も、失われて二度と戻ってこない。物心ついて以来、ずっと蘭洙に注いでくれた愛情も、奪われた祖国を取り返そうとした熱意も、もうどこにも存在しない。  残ったのは、たった数キロにも満たない骨の残骸だけ。  光洙が一体、何を思って死んでいったかを、弟に語ってくれる機会は永久に失われた。  蘭洙はぼんやりと自分の両手を眺めた。この手も、腕も、身体もいずれただの骨となり、砕けて消えていく。その時が、たとえ明日でも大した恐怖は感じなさそうだ。  兄がいなくなった世界は、遺灰みたいに白く乾いて見えた。  楽しみはない。喜びもない。だけど、光洙の死以上の悲しみも嘆きも、もはや存在しない。   自分の心は、魂は、肉体よりも先に破壊されて粉々になってしまったのだから――。  ……蘭洙は骨壺を抱いたまま床に降り立った。ふらつく足で窓に近づく。下をのぞきこむと、いかにも固そうな地面が見えた。頭から真っ逆さまに落ちれば、頭蓋骨も首の骨もうまい具合に砕いてくれるだろう。  それを実行すべきか迷った一瞬ーー強い風が蘭洙の頬を叩いた。  その時、空に垂れこめていた雲が風に散らされて、できた隙間から陽光が差し込んだ。蘭洙はその光に誘われて、ゆっくりと視線を下から上へ向けた。  薄雲のその彼方に、(まばゆ)いくらいに清冽(せいれつ)な青空が広がっていた。  その瞬間、たったひとつの欲求が、蘭洙の身体を電撃のように貫いた。 ――飛びたい。  あの空へ飛んで行きたい。初めて、ただ一人で航空機を操って飛行した時の記憶が、次々と蘭洙の脳裏に蘇る。エンジンを轟かせ、地面から飛び立った時の言い知れぬ高揚感。地上から遠ざかり、高度を上げていく間、まるで機体が自分の身体の一部のように感じられた。  飛んでいる、飛んでいる――定められた高度に達し、風防ごしに世界が目に飛び込んできた時、蘭洙は今まで味わったことのない自由を感じた。  ……すっかり色の悪くなった手を、蘭洙は陽にかざした。  地上から何千メートルと離れたあの場所へ、もう一度行きたい。自分をがんじがらめにしている苦しみを、一時でも忘れられる世界へ戻りたくてたまらなかった。  きっとそこなら、悲しみや怒りや恨みで今にも地面めがけて墜ちそうになっている身体も、いくばくか軽くなるに違いない。  あまりにつらいこの十日間を忘却できる場所が、今の自分には必要だった。  蘭洙は窓に背を向けた。もう泣いていない。ベッドに戻ると、上原が残していってくれた風呂敷で、光洙の骨壺をしっかりとくるんだ。  それが終わると、すっかり冷めてしまった食事に蘭洙は手を伸ばす。粥は絶食の味覚でも、まずく感じるくらいひどかった。それでも、一口ひとくち匙ですくって口に入れていった。

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