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第8章④
醸造蔵からは、それなりに距離がある。それでも風の流れによっては時々、今いる母屋の方にまで醤油の匂いが漂ってきた。
千葉県のこの一帯が、東京をはじめ関東地方に醤油を供給する一大生産地であることを、カトウは訪れて初めて知った。カトウを連れて来たサンダースも同じようで、到着時に興味深そうにあたりを見渡していた。
スティーヴ・サンダース中尉とジョージ・アキラ・カトウ軍曹はこの日、千葉県にある創業百年という老舗の醤油醸造会社を訪れていた。「瀬川屋」の号を持つその会社は、訪問相手である瀬川 倉吉 元少佐の実家である。敗戦後、復員した瀬川は現在、妻と二人の子どもと共にここに身を寄せていた。
「戦争の間は、若い連中が兵隊に行ったり、材料の大豆が途中から不足したりで、かなり難義していたそうです。まあ、それは今も似たようなものですが。私も慣れないながら、父について仕事を手伝っています」
瀬川はそう言って、今しがた女中が運んできた麦茶をサンダースとカトウにすすめた。暑かったので、カトウはありがたくコップを傾けて一気に八割ほど飲み干す。サンダースも口をつけたが、どうも味に慣れていないようで、のどを湿らす程度にとどめた。
畳の敷かれた客間に、瀬川はわざわざ椅子とテーブルを運びこんでいた。サンダースとカトウを前にした元少佐はくつろいでいるように見えるが、時々、顔や言動にぎこちなさがのぞく。事前に、来訪の目的は知らされているとはいえ、占領軍の軍人たちが来るとなれば、多少緊張するのも当然の反応と言えた。
瀬川倉吉は現在、三十九歳。上背があり、感じのいい顔立ちをしている。復員し、軍服を脱いで髪も伸ばした今では、元々の育ちのよさも相まって、昔風に「若旦那」と呼ばれても不思議でない雰囲気を漂わせていた。
カトウはしばらくの間、瀬川の世間話につきあっていた。だが、やがて頃合いを見計らって本題を切り出した。
「――先日、お伝えしましたように。本日うかがったのは、あなたの士官学校時代の同級生だった小脇順右について話をうかがうためです。小脇が亡くなったことについては……」
「お電話をいただく前に、すでに知っていました。妻が新聞を見て、教えてくれたんです。殺されたと書いてあるのを見た時は、ひどく驚きました」
カトウは瀬川の言葉を聞き終えると、それを英語に翻訳してサンダースに伝える。
サンダースはうなずき、質問を開始した。
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