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第8章⑧

 ジョン・ヤコブソンが対敵諜報部隊(C I C)のセルゲイ・ソコワスキー少佐のもとへ行くことは、本当に前触れもなく決まった。ヤコブソンはU機関を去る日に、カトウやササキのところに来て挨拶してくれたが、本人の口から転属の理由が語られることはついになかった。 「……体調が少しよくないようには見えたが」  カトウが言うと、「それならしばらく静養すればええ話じゃろ」とササキが否定する。 「のう、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ。お前、なんか聞いとるか?」 「え……えっと、ぼくも知らない」  フェルミはそう答えたが、視線が迷子の魚のようにあらぬ方へと泳ぐ。  明らかに何か隠している。 「……お前。ヤコブソンがここを辞めた理由、本当は聞いとるん違うか?」 「し、知らないよ!」 「うそつけ! その反応、絶対、知っとるじゃろ!――よし、ミィが当てたる」 「おい。よせって…」  カトウは止めたが、ササキはおかまいなしに続ける。 「イエスかノーかで答えーよ。――仕事でなんか大きなミスした」 「ノ、ノー」  知らないと言いながら、フェルミがササキの勢いに押されて答える。 「違うか。なら、U機関の誰かと個人的にトラブルになったとか?」 「ノー! ジョン・ヤコブソンは誰ともケンカなんかしてないよ」 「むうっ…これも外れか」  ササキが太い眉をしかめる。「もうそのへんにしとけ」とカトウが言いかけた時、ササキは何かを思いついて、ひざを叩いた。 「ひょっとして。ヤコブソンのやつ、U機関に居づらくなったんと違うか?」  この台詞にフェルミの顔が――無事な方の右半面が――それと分かるくらいに強ばる。それを見たササキは会心の笑みを浮かべた。 「よし、分かった! こういうことじゃろ。ヤコブソンのやつ、クリアウォーター少佐にくどかれて、それでここに居たくなくなった!」 「………」 「いい加減にしろ!!」  カトウが怒鳴った。色白の頬に朱色に染まっている。その顔でにらみつけられたササキは、冷や水を浴びたように口を閉ざした。今になって、この同僚とクリアウォーターの関係がどういうものかを思い出したのだ。  固まるササキを無視して、カトウはフェルミに言った。 「…もう、休憩はおしまいだ。いいな?」 「あ…う、うん」  フェルミはうなずいて、あたふたと翻訳業務室から出て行った。  フェルミが去って、ドアが閉まるのとほぼ同時に、 「……すまん。調子に乗りすぎた」  ササキが謝った。それでも、カトウは厳しい表情をゆるめなかった。 「――この際だから、はっきり言っておく」  ササキにぶつける視線の冷たさときたら、ドライアイスもかくやというほどだった。 「俺のいるところで、クリアウォーター少佐を二度と侮辱するな。不愉快だ。それから、俺とあのひとの間のことに首を突っ込んで、あれこれ引っかきまわすのもやめてくれ。お前からしたら、気持ち悪くて受け入れがたいかもしれないけど――だからと言って、とやかく言われる筋合いはない」  カトウは言うだけ言うと、口を引き結んで仕事を再開する。ササキはそんな相手に向かって何か言いかけたが、ちょうどその時、部屋の扉が開いて、ニイガタとアイダが戻ってきた。 言い出す機会を逸したササキは、口をつぐんですごすごと紙箱の中の資料の整理にもどるしかなかった。

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