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第8章⑩

「……この二人。モデルは誰だ?」 「特定のモデルはいないよ」  フェルミは言った。 「今までスケッチした色んな人から、ぼくがイメージを膨らませて描いたんだ。だから、二人は誰でもあって、誰でもない。男の人はマックス・カジロー・ササキかもしれないし、ジョン・ヤコブソンかもしれないし……ひょっとすると、ぼくかもしれない」  戦争中、至近距離で迫撃砲が爆発した時に発せられた高熱と弾け飛んだ鉄片は、フェルミの顔の左半面を無残に焼き崩した。以来、少数の例外を除いて、人々はこの青年をひと目見るなり、一歩かそれ以上、後ろに下がるようになった。とりわけ、若い女性は。   原形を保つ右半面に、フェルミは悲しげな笑みを浮かべる。恋にやぶれたキューピットは、こんな表情をするのかもしれない。 「いつかね。好きになった女の子と、こんな風に踊ってみたいーーこの絵には、ぼくのそんな気持ちも入っているんだ」 「………」  その内きっと見つかるさーーそんな無責任ななぐさめでも、言うべきだったかもしれない。   だが、カトウは迷って結局、口にできなかった。そのかわり、  「俺は素敵な絵だと思う」と絵を褒めた。  カトウの感想に、フェルミは一応、満足したようだ。「完成したら、いちばんに見に来てよ」とニコニコ言う相手に、カトウは「ああ」と約束する。  それから、おもむろに言った。 「――ヤコブソンのこと。お前、口止めされたんだろ」  フェルミの右半面に驚きが走る。長いまつげにふちどられた瞳を二三度、まばたきさせると、こっくり首をたてに振った。 「クリアウォーター少佐か?」 「うん。ぼく、たまたま事情を知っちゃって。ダンから、ほかの人には黙っているよう言われたんだ」  フェルミはさらに、もじもじとつけ加える。 「…昼間、言ったけど。ジョン・ヤコブソンがU機関から対敵諜報部隊(C I C)に移動したのは、誰かとケンカとかしたからじゃない。彼は誰のことだって傷つけてない。それだけは言える」 「分かってる」  カトウはうなずく。  傷ついているのは、おそらくヤコブソン本人だ。第三者のカトウにも分かるくらいの体調不良――よく考えれば、気づけるはずだった。  ほかならぬカトウ自身、ほんの少し前まで、体調がよくない状態が「常態」だった。  最近は悪夢で跳び起きることもずいぶん減ったが、カトウもまた、不眠と倦怠感にずっと悩まされていたのだ。  身体に負った傷は月日とともに()えても、心の傷はずっと深くつきまとう。  銃撃、自分自身の負傷、そして仲間だったニッカーの死。それらを経験したヤコブソンが今、どんな状態にあるかーーある程度のことを、カトウは推察できた。だからと言って、なにができるというわけでもない。医者ですら、いわゆる「戦争に行ったことが原因の神経症」を治せる保証はないのだ。  カトウはかつての自分のことを棚に上げて―ー結局、自分はまともに医者にかからなかったからだ―ーヤコブソンが適切な治療を受けていることを、願うばかりだった。   ……カトウは再び絵に視線を向ける。踊る日本人の女性とアメリカの軍人。その組み合わせと、彼女のまとう楽しげな雰囲気が、カトウに否応なく一人の女性のことを思い出させる。  カトウが一緒に踊った経験のある唯一の女性。  明るく屈託のない笑みの裏で、何人もの人間の心臓にナイフを突き立ててきた非情な人物。  元日本軍のスパイ、『ヨロギ』こと西村邦子だ。  彼女が今、どこにいてどんな状態にあるのか、カトウは知らない。クリアウォーターなら何か情報を持っているかもしれないが、カトウが赤毛の恋人にそれを尋ねることはない。二人の間では暗黙の裡に、この女性のことは触れてはいけない話題(アンタッチャブル)になっていた。  彼女はクリアウォーターを殺そうとした。彼女の立てた計画に巻き込まれる形で、サムエル・ニッカーは命を落とし、ヤコブソンは今も傷を負ったままだ。カトウ自身ですら、彼女に襲われて危うく命を落としかけた経験を持つ。  それでも――正体が露見した今でさえ、カトウはこの女性を、憎むことができずにいる。  そして今後もその心情が変わることはないと、半ば確信していた。

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