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挿章 カナモト①
……見渡す限り、墨絵のような世界が広がっている。
あるいはキネマの一幕と言った方が、ふさわしいかもしれない。
土塀がめぐらされた田舎の典型的な農家。その庭先に俺は立っていた。
きちんと人の手が入っているらしく、雑草が抜かれてあちこち掘り返された跡がある。だが土地がやせているせいか、塀の向こうにはろくに草木がない。そんな灰色の景色の中で、庭の一角を占める紫の色だけが鮮烈な存在感を放っていた。
近づいてその花びらに触れる。素朴だが、凛としたたたずまい。放っておいても育つ、強い花――。
紫蘭 だ。
俺は即座に理解する。これは彼が植えた花だ。
その途端、真後ろに気配を感じた。
振り向きざまに、俺は手を伸ばした。触れたかった。逃がしたくなかった。二度と離れ離れにならぬよう、鎖をつけてでも捕まえておきたかった。
だが、手はむなしく宙をかき、何もつかめずに終わった。
遠ざかった気配を追って、俺は家の中に駆け込んだ。靴を脱ぎすて大声で叫ぶ。名前を呼びながら、板戸を次々と開けて、部屋から部屋へと走り回った。
土間に草鞋 がそろえて置いてある。炊事場のかまどの灰がまだ温かい。よごれた鍋をのぞきこむと、張られた水の中で碗と箸とさじが、にぶい光を放っている。
寝室らしい部屋では、夜具の枕元に白い着物が吊るされていた。反対側の壁には、見覚えのある航空服が一式。ご丁寧なことに落下傘までそろえてある。
覚えている限りの、彼の持ち物が次々と目に飛び込んでくる。軍服。軍帽。外套。煙草とライター。飛行時計。整備員のひとりからもらったというお守り。
俺と彼の二人の間で贈り合ったささやかな品々ーー。
物置や便所までのぞきこみ、最後に飛びこんだ部屋で、俺は小さな引き出しがたくさんついた薬箱を見つけた。
はじめは、どうしてこれがここにあるのか分からなかった。だが、しばらくして思い出す。
俺はいつの間にか、この箱に彼との未来を託していた。何度も空襲をくぐり抜けて、たまたま最後まで手元に残ったが――見えるところにあるのが耐えられなくて、結局、自分の手で火にくべてしまったのだ。
見知らぬ土地に行って、二人で小さな家を借り、誰にも邪魔されずに暮らす。
かなうはずのない夢想だと分かっていた。それでも、二人の間で語るだけならどんな荒唐無稽な未来図だって許されたはずだ。
それをただの夢物語で終わらせず、希望を託した「未来」にしてしまったのは、俺自身だ。
それが粉々に打ち砕かれた時、二度と這い上がれない深い絶望の淵に、突き落とされるとも知らずに――。
俺は崩れるように、薬箱の前で座り込んだ。
「……なあ、いるんだろう?」
彼の気配がすぐそばに感じられる。気の触れたように走りまわる俺を、憐れんでいるように思えた。けれども目には何も映らない。声も聞こえない。触れようにも何もつかめないーー。
庭に面した部屋の中で、俺は両手で顔を覆い、泣いた。
かすむ視界の中で、さっきまで色づいていた紫蘭はすでにしぼんで枯れて、周囲と同じ灰色になっていた。
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