143 / 370
挿章 カナモト②
……目を覚ますと同時に、頭上からすさまじい騒音が降ってきた。部屋全体が音に合わせてガタガタと揺れる。それがおさまるまで、俺はじっと天井を眺めていた。
高架下に雑草のように収まった長屋の一室を借りて、もう半年になろうか。最初の数日は列車が通過するたびに鳴り響く轟音と振動で、おちおち昼寝もできなかった。とはいえ、慣れればどうということもない。上野方面へ向かう列車が通り過ぎ、一時的に静寂が戻った後、俺はいつものようにまた目を閉じた。往生際悪く、夢の続きへ逃亡を試みる。だが、まどろみはどこかに飛び去ってしまったようだ。目をつむったまま、思い出にひたろうとしたが、それもうまくいかない。結局、彼がいないという現実が、服に染み込んでくる雨水のように心を重くしただけだ。
再び列車が通り過ぎた後、俺は二度寝をあきらめて起き上がった。
窓を開けると、外はまだ薄暗い時間だった。五時半くらいだろう。空の明るさで時間をはかるのがすでに習いになっていた。
煙草に火をつける。すいはじめたはいいが、ぼんやりしていたせいで、たくわえたひげの上に灰が落ちそうになる。ひげを焦がす直前、俺は喫いさしを灰皿に置いた。それから身支度を始めた。
上野駅まで、俺は歩いて行った。まだ早い時間なので通りはさすがに人がまばらだ。それでも駅前ではすでにいくつかのメシ屋が開いていて、すいとんやら雑炊やらを朝食として売り始めていた。
何軒か通り過ぎたあと、俺はなじみの店の戸をくぐった。薄暗い店内には、ボロボロの机が二つとガタガタの椅子が六つ並んでいるだけだ。客はいない。奥の一畳くらいしかない狭い調理場では、ズンドウ鍋から湯気が上がっている。
「あれ、牧師さま。今日はずいぶんお早いですね」
ズンドウ鍋をかき回していた男が、俺に気づいて朝鮮語で言った。そう、このささやかな店を営む主人は朝鮮人だった。上野の界隈には、日本の敗戦後も祖国へ戻らず、日本にとどまることを選んだ朝鮮の人間たちが、何人も店を出していた。
牧師さま――そう呼びかけられるたびに、俺はその滑稽さに笑い出したくなる。ある場所へもぐりこむために牧師になりすますことを思いつき、結果的にそれはうまくいった。しかし毎週末、小さな教会の檀上に立ち、神妙な顔で信者たちを前に説法するたびに、洗いざらい真実をぶちまけたくなる。
俺は牧師じゃない。子どもの頃、確かに教会に通ったことはあったが、その目的は気のいい女の信者から、菓子やら果物やら何かしらの食べ物をもらうためだった。
つい先日、「汝 の敵を愛せ」なんて説いたが、その何日か前には憎むべきクズを一人、ドラム缶に縛ったまま放りこんで、ガソリンをかけて焼き殺したばかりだった。
そんな人殺しの素顔を隠したまま、俺はいかにも人のよさそうな穏やかな顔で「おはよう」と男に笑いかけた。
「うまそうな粥だ。一杯、もらえるか?」
「もちろん。汚いところで申し訳ありませんが、どうか座ってください」
待つまでもなく、ニラと白ごまを入れた麦粥に野菜の小鉢を添えたものが運ばれてきた。俺はそれを食べながら、男にたずねた。
「何か弁当代わりになりそうなものはあるか?」
店の主人は困ったように頭をかいた。おずおずと、昨日の売れ残りの芋まんじゅうならあると切り出す。売れ残ったくらいだから味が上等なはずがないが、一向にかまわない。
まんじゅうを古新聞に包んでもらう間に、俺は勘定を済ませた。
「今日も、あの監獄へ行かれるんですか?」
そう聞いてきた主人に、俺は「いいや」と首を振る。
「少し、気分転換をしたくて。これから、山歩きに行くんだ」
俺は背中の包みを示した。米軍から払い下げられた背嚢は、上野駅前の闇市で手に入れたものだ。今は水筒としなびたまんじゅうしか入っていないが、帰路には大分、荷物が増えている予定だ。
腹がふくれ、少しだけ気分が上向きになった俺はつい口をすべらせた。
「山に天使を探しに行くんだ」
主人はキョトンと目をしばたかせる。俺は笑いながら言った。
「キノコだよ。白くて、きれいな形をしているから、『天使』というあだ名をつけられたキノコを採りに行くんだ」
納得した顔の主人に別れを告げ、店をあとにした。
しばらく歩いてから、俺は牧師らしからぬ振る舞いをする。
口笛で知っているアリランの曲を、数節吹き鳴らした。
ともだちにシェアしよう!